『まずは完成させるのが大事』って、ほんと?

(2022/06/09 大幅改稿)
(2022/08/13 一部改稿)


『最初から〝完璧〟を目指すんじゃなくて、短くていいからまずは一作でも完成させてみよう!』

 小説に限らず、なにかしらの創作を志した方であれば、どこかで一度は聞いたり言われたりした言葉ではないでしょうか。
 最近では、ネットの創作界隈やまとめ記事などでも話題になっているのを見かけますね。

 実際のところ、上記のアドバイスはまったくもって〝正しい〟と思います。

 初っ端から大作志向、完璧主義なんて、いままでなんの経験も積んでいないスポーツ初心者が、いきなり公式戦に挑戦するようなもの。
 絶対不可能とまでは言えずとも、なにもいきなりそんな無理をしなくても、と言いたくなるのは当然です。

『作品を誰かに見せるのは、もっと実力をつけてからがいい』
『自分が納得できるだけの完成度まで仕上げてから公開したい』
『中途半端なものは嫌だ……』

 そう意気込んだはいいものの、結局形にできずエタって終わり、というのも事実ありがちでしょう。

 ただ、以上のことを踏まえた上で、あえて言います。

 ――自分が納得いってないものを公開するのって、本当に〝良いやり方〟なの?



 まず完成させるのが大事、という話とセットでよく語られるのが、人に見せて意見をもらう、たとえ失敗してもそれを糧にする、という点です。
 でもこれ、実際に創作活動された方なら、まずその時点で難しいというのをよくご存知ではないでしょうか。

 たしかに、創作投稿サイト・サービス、SNSなどで、自身の作品を公開することはぐっと楽になりました。

 ですが、それはほかの人も同じこと。
 ただ公開するだけ、では、激流に放り込まれた一枚の木の葉がごとくあっという間に流され消えてしまいます。

 リアルで周りに創作仲間がいない、という人の場合、まずは自分の作品を見てなにかしらの感想というアクションを、自分のために起こしてくれる人を見つけるところから始めないといけないのです。

 それって、言うほど簡単ですか?

 どのSNSでもいいですが、なんのバックボーンも〝コネ〟もない素人がぺぺっと投稿しただけでもらえる反応なんて、たかが知れています。
 いえ、たとえひとつでも反応をもらえるだけ御の字でしょうね。感想や指摘をもらうどころか、まともに見てもらうことすら難しい。

 だからこそ、とにかく作って完成させて、そうした厳しい場所で反応をもらうために試行錯誤するというのは、いい経験になるでしょう。
 ……本当にそれができるのならば。

 たとえばTwitterです。
 ここでの一番わかりやすい反応であるRT・♡数などは、作品の内容や質よりも、ぶっちゃけ相互さんの拡散力でほぼ決まってしまいます(これはTwitterで活動されてる方ならよくわかるはず)。

 Twitterほど極端でなくとも、ほかのSNSや投稿サイトでも似たようなものですね。反応が欲しいと思うなら、人と繋がるための努力がどうしても必要になる。

 とはいえ、露骨に宣伝目的、〝お返し〟を期待してすり寄る真似は好まれませんし、塩梅は難しいところです。

 私が写真系の投稿サイトを利用していたころ、新着など目についた作品を片っ端から評価+定型ひと言コメントを残して〝お返し〟を期待するやり方は、〝外交〟なんて呼ばれ、蛇蝎のごとく嫌われていました。

 しかしながらこの〝外交〟、わりとバカにできないのですよね。たしかに効果はあるんです。

 上記の例ほど無神経なやり方でなくとも、一定の反応や評価をもらうために、人の作品に評価を入れたり、感想を送ったりしながら繋がりを築いていく活動は決して間違ったものとは思いません。
 SNSとは本来そういうものですし、本当に自分が好きな作品や作者さんを推してくのであれば、下心ばかりとは言えないですからね。

 かといって、そうした活動は、ただ創作だけに打ち込みたいという人には負担になりかねません。誰もができる、というものでもないでしょう。

 わりと気軽に言われる、『SNSとか投稿サイトで反応をもらう』は、やはり言うほど簡単ではないはずです。



 そもそも。

 仮に誰かに見てもらえたとして、まともに読み込んで、きちんとした感想や指摘をくれる人は滅多にいない、という現実もあります。

 そういうのも含めて勉強、という方もいるでしょうが、当てにできないフィードバックはノイズも同然です。自分の作品を読み込んでくれる、ごく少数の読み手からの貴重な感想や指摘が、作者的にはとんでもなく的外れだった……なんていうことも、ないとは言えません。

 なんにせよ、この点で、小説はほかの創作と比べても一段ハードルの高い分野です。

 絵や写真、動画など視覚メインの表現は、一見もしくは短時間で観てもらえます。上達の度合いなどもわかりやすいでしょう。
 最初は上手くいかなくて失敗ばかりでも、成長して質を上げられさえすれば、必ずどこかで人の目に留まります。

 それに比べて、小説はある程度時間をかけないと読んですらもらえない。この、〝ある程度のところまで読んでもらう〟がどれほど難しいか。

 じゃあ読みやすいように最初は掌編、短編ぐらいの短さで書いてみよう、なんていうのは根本的な解決とは言いがたくて。結局のところ、仲間を作るための積極的な活動やコミュ力が一番効果的という、身も蓋もない結論になってしまうと思うのですよね。



 こんなこと書いてる私自身、いきなり長編&大作志向な人間でした。

 創作自体は物心ついたころからしていたため、完璧主義こじらせて一作目からエタる、なんてのはなかったものの。『適当なところで完成させて公開するより、とにかく完成度上げたい』→でも完成前に力尽きる、というのをたびたびやらかす子どもでした。

 それを見ていた親からも、『完璧を目指さなくていい、いったん完成させてから質を上げていけばいい』と繰り返し言われたものです。

 ですが、感情を上手く言語化できなかった当時から、そうしたアドバイスに対して、反感めいた違和感を、それはなにかおかしいという感情を抱いていました。

 いまならわかります。
 当時の私は、べつに100%を目指していたわけでも、完璧を求めていたわけでもなく。
 『これならいい』というある種の納得、自分のなかのイメージを形にできたという満足感が欲しかったのだと。

 〝いましたいこと〟がそれであって、腕を磨いてからどうという話ではないのだと。

 冒頭に挙げたような、最初から大作志向&完璧主義の方で、『中途半端なものは作りたくない、もっとレベル上げて完璧に仕上げてから公開したい!』とか言っちゃう人たちのなかにも、私と同じタイプは多いのではないかと思っています。

 そういう人に『完璧を目指すな』とか言っても、そりゃあ届かないですよ。はたから見て完璧を求めてるように見えても、本人は〝完璧〟を目指そうなんて思ってないんですから。

 ただ納得したい。
 ただ満足したい。

 単純にしてもっとも厄介なこの欲求が、最初から大作志向&完璧主義な人すべてに当てはまるとは言いませんが、どちらにせよ、『まず完成させる』よりも、もっとずっと大事なことだと私は考えています。

 なぜなら、この欲求を満たすための試行錯誤にこそ、創作の奥深さが詰まっていると思うからです。

 プロを目指すのでなければ、どこまでいっても所詮は自己満足。言い方を変えれば、自分が満足し、納得できるのならば、必ずしも作品の完成や評価だけが目指すべきものではないでしょう。

『まずは完成させてみよう』というアドバイスを聞かず、途中で力尽きてエタった人のなかには、本人なりの納得や手ごたえを感じて去っていった方もいるかもしれません。
 もしそうならば、その挑戦にはじゅうぶん価値はあったのだと思います。


 ただし。

 ここで忘れてはいけない大事な前提があります。
 これまで上記で書いていた、完成させられない、作品の質をとことん上げたい、もっと上達してからがいい……という気持ちの理由が、『人に見られるのが恥ずかしいから』など、人の目を気にしてのものではないという点です。

 これについては、この手の話でよく引用される、徒然草の第百五十段『これから芸事を身につけようとする人は~』というあの内容がもっともふさわしいでしょう。

 ざっくり言えば、『へたなうちは人に見せたくない。人知れずこっそり練習して上手くなってから披露するほうがカッコいい……とか言ってるやつが実際に芸を身に着けたところを見たことがない』というアレですね。

 これまで上で書いてきた内容は、これを読んで〝いやー耳が痛いぜ〟というタイプの人について語ったものではありません。

 人に見られるのが恥ずかしい、という理由で『上手くなったら……』と言っているタイプは、そりゃあ完成しないだろうなぁと思います。

 自分の納得・満足のためなのか。
 たんに未熟な自作を人に見せるのが恥ずかしいからなのか。

 この点は区別すべき大きな違いでしょう。
 逆に言えば、この点を区別せず向けられる、『完璧を求めていたら永遠に完成しないぞ』といった言葉は真に受ける必要はないと思います。さくっとスルーしちゃいましょう。

 私も人様の現代語訳でしか知らないものを賢しらに引用するのもアレですが、あの徒然草の内容も、べつに自作を人に見せまいとすることそのものが問題だなんて言ってないのですよね。
 未熟でもなんでも、才能のなさにつらい思いをしても、恥ずかしがることなく努力し続けるのが大切だよ、というメッセージは約700年経った現代でも色褪せない重みがあります。



 終わりに。

 上記の内容はすべて、ただの趣味としてやっている創作限定です。

 プロを目指す、プロではなくとも書籍化や商業デビューなど高い目標を持っているという場合はこの限りではありません。その場合、フィードバックがどうというより、まず完成品があるという実績、できればプロの目を納得させられるぐらいのポートフォリオが必要ですからね。
 この点について議論の余地はないでしょう。

 ですが、ただの趣味であるならば、それは自己満足と納得のためだけであるほうが、ずっと〝健全〟のはずです。

 人生、なにがあるかわかりません。
 もしかしたら明日、突然の終わりがやってくるかもしれず、『まずは完成させてみよう』で作ったものが、自分の人生最後の作品になるかもしれません。

 そのとき、この作品が最後でよかった、と思えるかどうか。

 なにいきなり重いこと言ってんの、もっと気楽にやろうよ! と言われちゃいそうですが、ここで言いたいのは、上でも繰り返し書いてきた〝本人なりの納得〟というやつです。

 完成させることを優先し、試行錯誤を重ね、自分の描きたいものを形にできるまで技術と経験を積み重ねるのはなんのため?
 漫画家にしろイラストレーターにしろ小説家にしろ、なにか目指すものがあるとして、それはなんのため?

 動機、理由はさまざまにしても、そこに〝本人なりの納得〟、手ごたえがないのなら、きっとどこかで躓いてしまうでしょう。

 だって、創作なんて負けと挫折ばかりじゃないですか。へたしたら楽しいより苦しいつらいのほうが多いくらいです。
 ならばなおさら、成功するにしても失敗するにしても、自分がやりたいようにぶつかっていったほうが得られるものは多いのではないかと。



 そして。

 上では、いつ最後の作品になるかわからない、と書きましたけども。
 同時に、自分の人生がどれほど長く続くかもわからないわけで。生きていて、やる気さえあれば、創作に終わりはありません。

 一度挫折しても、いつかまた筆を取るときがくるかもしれません。
 一度エタった作品も、サルベージして次に活かせるときが来るかもしれません。

 私は過去何度も超長編をエタらせてきましたが、同じぐらいネタを使い回したり、再構成して書き直したりしてきました。

 昔、五十万文字まで書いてからお蔵入りさせた超長編も、それから五年ほどのちに、べつの短編作品へと生まれ変わらせたりしています。
 やはり納得のいく形ではなかったものの、あのとき描きたかったエッセンスのいくらかは拾えたと自負しています。

 そうしていまは、十年以上前に眠らせた話からネタをリサイクルして、べつの話を書き始めています。こういった再利用はこれからも続き、懲りずに同じことを繰り返すのでしょう。

 少なくとも私自身は、大作志向がすぎるあまり、いくつもの話やネタをあきらめお蔵入りさせてきたことを後悔していません。むしろ『これそのまま公開しなくてよかった……』と安堵した経験のほうが多いです。思い入れのある内容ほど、しっかり形にしたいですから。

 だから、挫折してもエタってもあきらめてもいいと思うのです。
 自分が心底書きたいものなんて、十年や二十年程度で変わりはしません。何度だって拾い上げて、敗色濃厚な戦いに挑んでみせましょう。



・長い。三行でまとめろ。

 自分の思い通りの創作がしたい、上達したいなら、とにかく作って数をこなすのは大前提。たしかに絶対必要になる。
 でも言われるまま数をこなせて上手くなれる人なんてまずいない。継続して数こなせるのも一種の才能。
 ふつうの人が数をこなすためには本人なりの納得や拠り所が必要。そしてその拠り所は外でなく内に求めたほうがきっといい。












 おまけ。

 ついでに、もひとつぶっちゃけましょうか。

 今日日、自信を打ち砕かれるのなんて秒ですよ、秒。
 SNSや投稿サイトを開けば、丹精込めた渾身の自作が秒で吹き飛ばされるような面白い作品がごろごろしてて、しかも作者が自分よりはるかに歳下だったとかよくあるやつですよ。
 あとだいたい自分が自信もって送り出したものほどなぜかウケなくて、適当に書いたやつのほうが伸びるとかあるあるだし。まあその伸びるっていうのも当社比でぜんぜん大したことなかったりするけど。

 だから大事なんですよ、本人の納得っていうのが。逃げ道のない納得っていうのは、成功しても失敗しても自分を支えてくれるから。不安を乗り越えるための糧になるから。

 そしてこの〝納得〟は、成功あるいは失敗体験をどれだけ重ねても、上達しても、それだけでは手に入らない。
 創作・表現……自分が描きたいものと、とことんまで向き合って、掘り下げて、突き詰めて、あがいてあがいてのたうち回って、でも届かなくて絶望する、その先でしか得られない。そこでは『なにかを作ったことがある』というふつうの経験値はなんの役にも立たない。

 第一、初っ端大作志向の完璧主義だろうがそうでなかろうが、一度の挫折で止まっちゃう人なんてアドバイス通りにやってもどっちみちどこかで躓いて止まっちゃうんですよ。
 止まらない人はいきなり初手超長編の完璧主義で爆死しようが挫折しようがエタろうが止まりません。
 やりたくてやってるだけだから。

 創作なんてほぼ九割つらいだけ。残りの一割をどこに見出すか。
 たとえ一割でも、残りの理由を見つけ出せていたらだいじょうぶ。
 その人はなにがあっても止まることはないでしょう。



 * * *



 とまあ、作品を公開しないうちから近況ノートに創作論めいたことを書き連ねるという奇行を繰り返している奴がなに偉そうに語ってんだって感じですね! うひひ!

 ……いやまあ本当なら一作めをもう公開してる予定だったけど、前回のノートを書いたあとよくよく読み直したら、性描写がこれアウトじゃねーかってレベルに思えてきたので、全面的に修正してるとこだったり。
 でもやっぱ難しいんすよね、性描写って。ぜんぶ削れば絶対だいじょうぶだけど、ぜんぶ削ったら成り立たない。少なくとも作者的には。

 一部の人には理解されないだろうことを承知の上で言うけど、〝無意味な性描写〟なんて存在しないんですよ。どう考えても作者の趣味でしかないただの下品なえろ描写も、それによって読者の内面や受け取り方が照らされたり、作品や登場人物のシルエットが浮かび上がる役割や意味は絶対あるんです。
 あとはもう作者がそれをどう自覚的に扱うか、読んだ人がどう感じるかって話だけ。

 だからガイドラインも性描写そのものを禁じてるわけじゃなくて、問題は描写のしかたと量。で、これのアウトセーフがわかんねー。

 とか悩みつつ直してますはい。いま二十万文字ちょいまではできあがってて、三十万文字ちょいまでいくとキリがいいとこなので、そしたら公開したいところ。
 その都度書いて更新してくとか器用なことできないから、ある程度書き溜めてドバッと出すスタイルでいく所存。
 ここまで書けてれば少なくともエタりはしないはず。いやフラグとかじゃなくてっ!

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