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冴えない彼女の二次創作、完結しました。


 こんにちは、わたしです。

 そもカクヨムに来た理由のひとつが、冴えない彼女の二次創作ができるよっていうのを(確か)ツイッターで見たからでした。
 自分の作品じゃなければ、いくらでも愛情を注ぎこんでも良いのだ。客観視しなくてもいいぞ。好きなものを好きなようにやれ(そこまでは言ってません)ってあったので、書きました。

 安芸くんと、加藤さんを書くのは、楽しかったです。
 ifの話は推敲が足りてないので、また気を見て手を入れます。

 * * *

 そして、ちょっと真面目にどうでも良い話。
 プロフに「異世界転生ものあんまり好きじゃない」とありますが、ちょっと真面目に語ると、嫌いじゃないんです。

 形はやや違いますが、SAOとか、ログホラも大好きです。

 ただ、最近書店で並んでいる大判本を
 開いて目を通しても「うーん…」といった感じで。

 いちばん大きな理由をあげると、

 ヒトが死んでしまった。

 ってところを、さも当然のように
 「スタートライン」として開始してるからです。

 それが良いものか、悪いものかはおいといて、
 わたしはその「死んでスタートラインを切りなおす」のが
 個人的にモヤっとするのです。

 メタフィクションとしての「SAVE」や「LOAD」
 あるいは「ループ」としてのお話も好きです。

 でも、異世界転生は、そもそも「死を肯定する。死を歓迎する」という視点にあるものが、ものすごく多い気がします。

 なんでかなー。流行かなぁっていろいろ考えましたが、解答としては「現実の愛とか平和なんて、みんな嘘だよ」って、みんなが思ってることに尽きるんじゃないかって、思いました。

 いわゆる「人情もの」こそが、真のフィクションなんだ。ありえないんだっていう、そういうのです。

 そういう世界には、当たり前だけど「救い」なんてないです。もしかしたら、あるのかもしれないけど、『視えてこない』。

 じゃあ、あらゆる要素が最初から『パラメーター(数値)』として可視化されたセカイの方が、ずっとリアルで正しいんだっていう。そういう結論に至ってるんじゃないかって思います。

 同時に、そういうセカイの方が「快適で、過ごしやすい」のも確かだと思います。視えないものが少ない方が、ストレスは少ないですから。

 けどわたしは、『ストレスのある話』が好きでした。それが少数派であっても、染み入る毒のように、継続して痛みを感じ続ける味わいがないと「これウソでしょ?」って感じます。

 SかMで言えば、Mなんだと思います。 

 丸戸先生の作品は、そういうMが喜ぶ痛みを各種取り揃えていらして、先っぽの方から丁寧に笑顔で嬲って来る嫌らしさがあるので、好きです。加藤は真正のSだと信じて疑いません。

 冴えない彼女がアニメ化されていた際、
 ネットのツイッター等で時々

「加藤が冴えないとかありえねぇ! いちばん冴えてるぅ!」

 的な意見をよく見かけましたが、わたし的にはあれ、

 「Mフラグチェッカー」

 なんですよね。

 加藤がいちばん可愛い!! =わたしMです!

 加藤が冴えてる! =加藤さんにイジめられたい!

 加藤が好き! =ナチュラルに言葉攻めされたいっ!!

 っていう。そういう。フラグチェッカー的な。

 ――そして「2期はじまるよー」と聞いて、

 あぁ、今年も全世界の潜在的なM系男女が自爆するのかぁ…とすごく楽しみにしております。


 つまり、わたしは異世界に行くよりも、加藤さんに一生罵られた生涯を送りたい変質者ということを熱く語った次第です。

 通報だけはしないでください。それでは。

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