はじめまして、もしくは、こんにちは。
郷倉四季です。
新作についてあれこれ書きたいと思いつつ、僕の作業効率が非常に悪かった為にここ数日、まったく手がつけられませんでした。
個人的なことなのですが、ここ数ヶ月僕は一日中何の制約もなく小説と向き合える日というのがありませんでした。
色々、もの凄く仕様もない理由が積み重なっておりまして、人生色々あるなぁと思っています。
ただ、今回の祝日は死守しました。
本当に数カ月ぶりの何の予定もない一日。
最高です。
買い物に行かないといけないとかはありましたが、その程度です。
夕方、お風呂に入った後に昼寝をして、幸せ過ぎて溶けるんじゃないか? と思いました。
昼寝最高です。
ちなみに、みなさまは見た夢って覚えています?
僕は基本覚えていないのですが、寝起きてすぐは自分が現実にいるのか夢の中にいるのか分からなくなることが多々あります。
そして、その夢の感触で最近読んだ漫画とか小説とか映画とかの世界を好き勝手に歩き回っていたと分かります。
今日の夢の世界は昨日全巻買った「潔く柔く」でした。
いくえみ陵の漫画で、ずっとオススメして下さっていた方がいたのですが、全然手に入らなくて……。
ずっと近所の本屋や古本屋を巡っていたのですが、本当にまったくないんですよ。何度、古本屋の少女漫画の棚で項垂れていたことか……。
そんな日々も終わりましたよ、やっほい。
「潔く柔く」
最高ですね。
手に入れるのに苦労した漫画って勿体なくて、僕すごくゆっくり読んじゃうのですが、夢に見るレベルで良いです。何より構成が最高に上手いんです。
いくえみ陵は本当に物語作りが天才的なんだと思うと同時に、ここまでキャラの書き分けをされると自らの勉強不足にヘコみます。
如何に面白いか、というのはエッセイで書きたいと思うのですが、あらすじを紹介するのが困難だなぁと今から悩んでいます。
多分、僕が好きなキャラの話をしようとすると本筋のあらすじからズレるんですよね。
まぁ贅沢な悩みですね。
新作の話をします。
もう新作という感じもしませんが。
・顔のない獣 その① 最低の夜をこえて
倉木さとしの新作です。
舞台は2016年の岩田屋町。
主人公は中学生の浅倉隼人と久我遥(だと僕は勝手に思っています)。
二人は幼馴染です。
あらすじに掲載した文章を引用させてください。
――「顔のない獣を××で、やっつけたね」
幼馴染の久我遥と××をした日から三年。
浅倉隼人、十四歳の夏。
「隼人はさ、あたしが恋人を作るのに抵抗とかないの?」
一緒にいることが当たり前だった。
周囲から見てもお似合いの二人だった。
「教室で××してきた隼人とは、別人みたいだよ」
人生はやり直せない。せいぜい、未来で思い出すだけだ。
あの日は最低の夜だった、と。
「遥、オレはお前が思ってるような男じゃねぇよ」
「私がUMAを発見したら、教えてほしいかしら?」
「そろそろ追いかけっこもやめにしようぜ。ここらで、気が済むまで殴らせてくれよ」
夢は生半可な覚悟じゃ叶わない。
最低な夜を超え、誰よりも速く駆け抜ける。
「これで、隼人も呪われちゃったわね」
君を自由にできるのは 宇宙でただ一人だけ
ラストの一文が個人的にやりたかったんですよ。
スピッツ8823の歌詞です。
8823(はやぶさ)は倉木さとしが今作の主人公、浅倉隼人のテーマソングと定めていました。
そんな話を以前にも聞いていたので、8823は結構聴き込んでいました。
で、今回の掲載に辺り、改めて聴いてみると、
――君を自由にできるのは 宇宙でただ一人だけ
って、めっちゃ良い歌詞じゃないか!
と職場の休憩室でなりました。眠気も吹っ飛びました。
最近、8823を聴き込んでいます。
ちなみに「顔のない獣」は2016年から始まったシリーズでした。
2016年7月1日に僕は「顔のない獣 その①」の感想を倉木さとしに送っています。
その際の感想を一部抜粋させてください。
――臆病さの克服、純粋さの消失は成長することに欠かせませんが、今回、僕は隼人の成長の仕方が一番印象的でした。
異邦人を書いた、最年少ノーベル文学作家、カミュの思想に「正義のためらい」というのがあります。
この思想を僕が正確に理解出来ているか、自信はありませんが、言ってしまえば、中途半端であることなんです。
自分が属そうとしている正義は、どこまで正義たり得るか、見定める。
中間に位置することが、人間的価値、とカミュは書きます。
暴力を選ぶことは、それが正義であれ、罪であることの覚悟を持つべきだ的な思想なのだと僕は解釈しているのですが、今回の隼人は実に、この点に忠実だったと思います。
何を偉そうに書いているんだ、と個人的には思いますが、「正義のためらい」、中途半端であることの覚悟、そして、それを貫く誠実さが、「顔のない獣 その①」には確かにあります。
同時に臆病さの克服、純粋さの消失も、この作品にはあるんです。
青春の苦しさがギュッと詰め込まれた今作を、どうぞよろしくお願い致します。
以下、URLです。
https://kakuyomu.jp/works/1177354054891013144・オムレツの中はやわらかい方がおいしいのか?
まだ2話しかありませんが、2代目エッセイです。
前回は「オムレツを作るためにはまず卵を割らなくてはならない。 」です。
とくに繋がっていませんので、「オムレツの中はやわらかい方がおいしいのか?」だけ読んでいただいて問題ありません。
基本的に週一回の更新で、その時に考えたことをネタにエッセイを書こうと思っています。
ラジオで言う、フリートークみたいな感じです。
乱雑な内容が並ぶことが予想されますが、一応テーマのようなものを決めました。
村上春樹と僕。
待ってください!
分不相応なテーマなのは分かっているのですが、待ってください。
言い訳だけ、言い訳だけさせてください。
最近、新潮の9月号を読んだんです。
特集が「江藤淳 没後二〇年」で、高橋源一郎の講演があったんです。そこで、
――『アメリカと私』、『成熟と喪失』、『漱石とその時代』、『文学と私 戦後と私』、『自由と禁忌』……こんなに「アンド」が多い批評家はいないと思います。
面白いのは、基本的にどれも「と」の前後が並列ではないのです。『アメリカと私』や『漱石とその時代』では、大きな存在と非常に小さな存在を並べています。
と書かれていました。
これを読んだ時に浮かんだのは佐々木敦と古川日出男の対談で、日本文学には三人の巨人がいる、というものでした。
大江健三郎、中上健次、村上春樹。
なぜ、この三人なのか、と言うのは語られていませんでしたが、個人的に納得のメンツでした。
巨人という表現も何だかしっくりきました。
この三人は確かに大きな存在です。
それに対し、僕は非常に小さな存在です。
江藤淳のように語られるとは欠片も思っていませんが、巨人のような存在である村上春樹に僕はどのように影響を受けてきたのか、ということを考えられれば良いなぁと思っています。
こちらもぜひ、よろしくお願いいたします。
以下、URLです。
https://kakuyomu.jp/works/1177354054890981690 近況ノートのクセに長いなぁ。
すみません。
あと、佐久間宣行のラジオが面白いって話とかしたかったのですが、今度にします。笑