渡守センは、人混みの中を一人歩いていた。イルミネーションで輝く街並みと、楽しそうな人々の声が耳に入るが、どこか遠い世界の出来事のように感じられる。
「……うるせェな」
クリスマス特有の浮かれた空気に軽く舌打ちしながら、周囲の喧騒を遠ざけるように歩いていたセンだったが、ふと視界の端に見慣れた後ろ姿が映った。
サチコだ。
音楽が聞こえる方向に向かい、じっと立ち尽くしている。イルミネーションの中で佇むその姿は、街の華やかな雰囲気とはどこか違う静けさをまとっているように見える。
一瞬、通り過ぎようとした足が自然と止まる。ポケットに突っ込んだ手がわずかに強張り、自分でも理由が分からないまま、センは声をかけていた。
「何してんだよ」
「あ……渡守くん?」
振り返ったサチコは、顔の表情こそほとんど変わらないが、声のトーンに驚きが滲む。視線が合うと、その目がほんのわずかに柔らぎ、無表情ながらもどこか穏やかな雰囲気を纏ったように感じられた。
「私ですか?演奏が聞こえてきたので、少し立ち止まっていただけです」
「ふーん……」
センは興味がなさそうに返しながらも、視線が自然と音楽の方へ向かう。
道端では若いミュージシャンがクリスマスソングを演奏していた。ギターの軽快な音色が馴染みのあるメロディを奏でている。曲調こそ華やかだが、音にはどこか穏やかさがあり、街の喧騒をほんの少し和らげているようだった。
サチコはその場に足を止め、じっと音楽に耳を傾けていた。表情はほとんど動かない。それでも、微かに動く視線やゆるやかに傾く首の動きが、彼女の心が音に寄り添っていることを物語っている。
街の喧騒から切り離されたようなその姿には、どこか浮世離れした静けさが漂っていた。
センは眉間にシワを寄せ、ぼそりと呟く。
「…………何が面白れェんだか」
その口調はぶっきらぼうだったが、いつものような鋭さはない。
その場を立ち去ろうとしていた足は、いつの間にか止まっていた。センはポケットに手を突っ込んだまま、仕方なさそうにサチコの隣に立つ。
「いい曲ですよね」
「あ?そォかァ?」
「……渡守くん。今、時間は大丈夫ですか?」
サチコが小さく息を吐くように微かに笑い、わずかに視線を向けた。その無表情な顔立ちには、微かな柔らかさが滲んでいる。
「せっかくですし、少し聞いていきません?」
「……チッ」
センは舌打ちをしつつも、その場を離れず隣に立ったままだった。どこか不満げな態度を装いながらも、耳には演奏がしっかり届いていた。
肩越しにちらりとサチコを見ると、彼女の表情は変わらないままだが、その目は確かに音楽に引き込まれている。イルミネーションの淡い光が、その横顔をやわらかく照らしているのを見て、センは無意識に視線を逸らした。
軽快なメロディが続く中、センは仕方なく耳を傾ける。妙に心が落ち着く気がする自分に気づき、どこか居心地の悪さを覚えてわずかに顔をしかめた。
演奏が次の曲に移り、少しテンポの速いメロディが流れ始めた。街を行き交う人々のざわめきが薄れ、ミュージシャンたちが奏でる音楽がその場を支配しているようだった。冷たい夜風が通り過ぎるたび、イルミネーションの光が揺れ、音楽のリズムに合わせて踊っているかのように見える。
サチコがふと、センに目を向ける。その視線には感情はほとんど浮かんでいないが、何かを確かめるようなわずかな気配があった。
「渡守くん、今日は何か用事があったんですか?」
突然の問いかけに、センは少し肩をすくめるような仕草を見せた。
「別に、何もねェよ」
「じゃあ、ただ歩いていたんですか?」
「そんなとこだ」
そっけない答えに、サチコは軽く瞬きをしてから小さく頷いた。
「そうなんですね。でも、意外です」
「何がだよ」
「渡守くんが、こういう場所を歩くなんて」
無表情のまま淡々とした口調で言うサチコに、センはわずかに眉をひそめた。
「……うるせェな。どこ歩こうが俺の勝手だろ」
だが、口調に反して彼の声には棘がない。それを気にする様子もなく、サチコは再び音楽に視線を戻した。
「そうですね」
淡々とした返事を返すサチコに、センは微かに口元を歪めて、短く息を吐いた。
「テメェは、どうなんだよ」
「私は、買い物終わりに少し寄り道をしていただけです。音楽が聞こえたので、つい」
「……そォかよ」
短い会話の間にも、音楽は静かに盛り上がりを見せていた。ギターの音が軽快に響き、それに重なるように柔らかなボーカルが加わる。街の喧騒は遠のき、まるでこの瞬間だけ二人のために音楽が奏でられているようだった。
サチコは再び音楽に耳を傾ける。その姿をちらりと見たセンは、ポケットに突っ込んだ手を強く握り直した。
「お前、こんなの聞いて何が楽しいんだよ」
何気ない一言に、サチコがわずかに首を傾げる。
「楽しいというより、ただ落ち着くんです」
サチコは一度だけセンの方を見てから、再び音楽に視線を戻した。その口調は変わらず淡々としているが、音楽に耳を傾ける姿はどこか穏やかだった。
「……落ち着く、ねェ」
センは鼻を鳴らしながら、少しだけ肩をすくめる。
「俺には分かんねェな」
「そうですか?」
サチコはわずかに首を傾げたものの、それ以上は何も言わず、再び演奏に意識を向けた。その静けさが、逆にセンの目を引きつける。
肩越しにちらりとサチコを見ると、彼女の表情は変わらないままだったが、その目は確かに音楽に引き込まれている。センは舌打ちをする代わりに、小さく息を吐くと、そっぽを向いた。
「……まァ、たまには……悪くねェな」
その呟きはまたしても音楽にかき消され、誰にも届かなかった。
最後の音が静かに消えていくと、周囲の人々から拍手が湧き上がった。センはポケットに手を突っ込んだまま、無言で演奏していたミュージシャンたちを一瞥するだけだった。
「……終わったみてェだな」
呟くようなセンの声に、サチコが軽く頷く。
「ええ、素敵な演奏でしたね」
「別に……」
そっけなく返すセンに、サチコは特に気にした様子もなく、淡々とした声で続けた。
「渡守くん、最後まで付き合ってくれてありがとうございます」
「あ?テメェに付き合ったつもりはねェよ」
センは視線をそらしたまま答える。その態度にサチコは小さく首を傾げ、ふっと短く息を吐いた。
二人の間に短い沈黙が訪れる。寒い冬の夜風が通り過ぎ、イルミネーションの光が揺れ動く。演奏の余韻が静かに消え、街のざわめきが徐々に戻ってきた。
「少し、長居してしまいましたね」
「……」
センの無言の返答を聞きながら、サチコは軽く頷くと続けた。
「私、そろそろ帰ります」
サチコがそう言って軽く頭を下げると、センはちらりと彼女を見やっただけで、肩をすくめた。
「そォかよ」
「はい。渡守くんも、帰りはお気をつけて」
サチコの背中が遠ざかる。無意識に視線を追いかけてしまう自分に気づき、センは舌打ちをした。
「……クソが……やっぱ、気にくわねェ」
センが小さく呟いたその言葉も、誰の耳にも届かず、ただ夜空へと消えていった。