https://kakuyomu.jp/works/1177354054895940274ことは、フィンディル感想に申し込みをしたときにさかのぼります。
わたくしはグレておりました。
総じて企画参加の評価が低かった、それ自体は予想できたことですし、いくら情熱に突き動かされていたとはいえ、一晩で一作、寝かせもせずにUPしてしまうので、推敲に割く時間があまりにも少ない。
しかし、わたくしは追いつめられておりました。
これが、この作品が自分の全力投球だと勘違いしておりました。
甘い。
甘すぎました。
世の中にはもっと、まじめに取り組んで、真摯に自分と向き合っている人がいるというのに、わたくしは……。
いえ、作品に対する気持ちは負けておりません、と思いたい。
しかし、方法と理論がおっついておりませんでした。
理論を伴わない実践など、空回りもいいところ。
作品は、だれかへの贈り物である、ということを忘れかけておりました。
子供が友達へのプレゼントのために、ラッピングに凝る――そこまではいいとして、うまくゆかなかったものをそれと知らずに贈ってしまい、不興を買う――これほど醜く滑稽で残酷なこともございません。
フィンディル感想に出逢えてよかった。
今、かみしめております。
そう思わせてくれたのは、フィンディルさんの「他者作品をヨムとき」の「音読」でした。
フィンディルさんのノートを拝見した時、そこまでして読んでくれる読者がこの世に存在するんだと、衝撃を受けました。
カクヨムはWEB小説です。
いえ、媒体が紙だったとしても、読者は最初のページで気にくわなければそこで閉じる――それが運命の成れの果てだと信じ切っておりました。
そこの時点で、わたくしは作品を見捨てておったのです。
全力こめて書いたものを、読んでもらえないならば、それは駄作だ。
当然、そんな思いでつくったものが、他者の心をうつはずがございません。
わたくしは孤独でした。
孤独なわたくしの文章に寄り添ってくれるだれかはありません。
ですから、今日まで気づかずに来ました。
努力は、つづけるからこそ届くんだと。
何に届くのかはご想像にお任せするとして。
わたくしは、もう一度、己の作品を「音読」してみました。
ひっかかるのは、なにもわたくしの滑舌が悪いせいではありませんでした。
「音読」してくれる誰かのためを思ったことはありませんでした。
そんなにまでしてくれる読者は、誰もいなかった。
だから、わたくしの作品は「読者不在」の「見捨てられた」作文だったのです。
つらかった。
哀しかった。
そんな作品を誰に見せようというのか。
わたくしは、己を不幸にする文章を書いてきた。
そんなのはいけない。
駄文以外のなにものでもない。
読んでくれるかたのために、全力を尽くそう。
そうすべきだ。
そう思いました。
どうせわたくしの文章なんか!
そう思って書いたものは、読者に親切ではありません。
真に心のこもった贈り物ではありません。
だから、自分の作品に向けられた感想でなくとも、フィンディル感想がわたくしにもたらしてくれたのは、贈り物を受け取ってもらえた、その感動とよろこび。
もっといいものを書こう。
もっと、もっともっともっと!
あらん限りの力をこめて、井戸の底から拾い上げた宝物を、よりきれいにして届けるのだ。
顔も声もどなたかもわからない、けれど真剣に受け取ってくれる大切なだれかのために。
そう思って、夕べフィン感に応募した作品を、「音読」して大幅加筆しました。
駄文を増やしてどうする、と思われるかもしれません。
しかし、コメントでいただいた指摘に「圧倒的情報不足」というのと「贅肉がない」というものがありました。
正直、どちらも説明が足りないというお話なのだろう、とは思っていました。
はい。
説明は小説ではない、とどこかでインプリンティングされておったのです。
説明せずに、わかってもらうには描写を増やすしかないんだろうな、と思っておりました。
そうじゃない。
説明は説明として、小説の大事な部分だ――ということを今回改稿するにあたって思いました。
過不足なく――というのが、肝心なのだろうな、ということも。
わたくしは学びました。
これが創作ライフの幸せな第一歩であることを祈って――がんばります。
2020/05/23/土 水木レナall
※あと、描写も描写でうまくなりたい……。3
フィンディルさんの感想ができるまで
→
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