剰余享楽が原子的な熱量消費の代謝循環ではなく電子の離散的エネルギー準位のバンドギャップで交換されるのなら労働力身体の「平等な」人格交換の法権利は貨幣と質量的な同等性の関係を持たなくなる。だが身持ちの女性と乳飲み子を抱えた女性と「哲学者」(ヘーゲルに生産される大学の哲学者ではなく)は身体的な快楽の離散的関係と思考の物質的形態が量子的状態で存在しているので労働力身体の過剰の部分を接合することはできなくなる。だから義人の復活のような善の真理の等価性を享楽の形態であるかのように保持していなければならないのだが、それは資本的融資と同一視されることでのみ有意義な準備金に過ぎないので、学問の知識そのものが法悦の対象となる。女性享楽を学問から切り離して男性の快楽をファルス関数から解放することはエクリチュールをアーキテクチャの物理的恋愛の方法的懐疑にトランザクションのトレードオフとして委ねられる。だがそのことで生じる愛の重力は国家の不公平な報酬支払いで性的な承認戦略に受肉化されるので、労働技術をコストパフォーマンスで計量化できるカードの電磁誘導支払いに汎用的なトリガー操作の比準の利用率からユニット単位の総和で価格化されなければならない。このことは光量子の波長変換の壊れやすさを恋愛の利得とするような構築単位で主量子の命名の視座に結婚の快楽の種子を求める必要があることに等しい。