クリプキの言い回し、「したくなる〔inclined to do〕」と「適用したくなる〔inclined to apply〕」に注目しながら、クリプキの読みを書き換えて、それをいわば『探究』のよく知られた一節に重ねてみようと思う。クリプキの二つの言い回しは、すでに引いた二つの文章の最後のほうに見える。『探究』のよく知られた一節は二一七節の中に見える。
私が正当化をやり尽くしたのであれば、私は堅い岩盤に達したのであり、私の鋤は反り返ってしまったのだ。そのとき私は「とにかく私はこうするのだ」と言いたくなる。
私はクリプキの読みをこう書き直す。
私が……をやり尽くしたのであれば、[云々]。そのとき私は「とにかく私はこうしたくなるのだ」と言うのを許されている。
二箇所でウィトゲンシュタインの言葉を書き換えている。「たくなる〔inclined〕」の位置替えをし、元の場所に「許されている〔licesed〕」という語を入れた。(クリプキは「人を孤立した〔切り離された〕状態で考える」(一七二頁)場合において、ある慣行[実践]が、その人に、自分にはこのように思われる〔it strikes him こうやるのが正しいと思われる〕仕方で規則を適用することを許す(ライセンス)という観念を導入する。その人が「広く共同体と相互作用している」ことが明らかになれば、その人の傾向はもはや自分のしていることを許す根拠ではなくなる。その人のしていることは、他の人の傾向にもとづいて許されたり許されなかったりする(一七八ー一七九頁参照)。このことが言語の私秘性(プライヴァシー)の問題を解決するはずだと考えられている。『探究』に対する私の見方からすれば、この公的な許しによっては私秘性から一歩(ステップ)も抜け出せないだろう。こういってもいいかもしれない。それは『探究』で描写されているような同意や権威の観念を捉えていない。しかしこのことが私にとって重要なのは、それ〔公的な許し〕が『探究』で達成されている私秘性も孤絶性も捉えていないという点である。この問題は、これより後、暗黙裡にのみ言及される。)
(二一七節の)この箇所をウィトゲンシュタインの教示の場面と呼ぼう。クリプキの場面は、私の解釈では、全く違う方向に展開していく。【スタンリー・カヴェル『道徳的完成主義 エマソン・クリプキ・ロールズ』】
クリプキはウィトゲンシュタインが直接的な解釈に賛同しないであろうと想像する。このクリプキの留保を引きとって、私はここでひとつ助言をしておこう。それは、(しばらくの間、あるいはその後もずっと)ウィトゲンシュタインの魅惑から解放されて、彼の書き方は、たしかにみごとなものだが、彼の教えにとって、かならずしも本質的ではないと思いたい人、彼の書き方はときおり失敗するのではなく、失敗が不可避なのであり、彼の書き方は《それほど》重要なものでは《ありえず》、その情熱的な語り口が強調して見せるほど重要なものでは《ありえない》と思いたい人に向けてのものである。私の助言はこうなる___『探究』の書き方は完全に直接的である___これ以上直接的な書き方がないほどに(本題から逸れもしない)___と見なすことが大事だ。鋤は反り返っているのであり、もはやテーゼもなく、遂行すべき課題もない。それが哲学に対するウィトゲンシュタインの姿勢であって、まるで(ほかの)目標がないかのように、常に停止状態に達している(「平和」)。こうした手法に限界があることを私は否定しないが、直接的でない行き方は力の源泉にも非力さの源泉にもなる。反り返った鋤、鉾先の鈍ったペンに結びついた描写はつねに立ち戻ってくる。【同上】