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日常生活の合意が歴史という文脈の違いを個人の多様性に置き換えるような金銭契約として奉仕する

日本が「本来的に」土着の人間性に対して歴史修正主義であるということと、日本の帝国主義の残虐行為を兵士としての人民が認めないことが明治から昭和に続く憲法の正当性に関する日米の歴史修正の史観であるということと、中国の歴史的文脈を敗戦した日本に当てはめることが人民の被害者の修正主義の文脈でしか報道されないということは違う。ここでの問題はアメリカが日本の「無条件降伏」を誰との関係に沿ってのみ天皇として機能させるかの条約かが問題であり、この歴史を植民地闘争の間接委任統治の処理を「帝国日本の歴史」に代理させるという狡猾さを英米が取っていることを天皇に象徴される憲法が認めないことが帝国主義日本の残虐行為を認めないことと等号で結ばれるわけではないということが中国共産党には『政治的含意として』わからないことを台湾問題で政治的に利用している国際連合が認める歴史観を採用しないことをナチやウクライナの代理戦争とロシアの立場に結び付けることがソ連の北方領土と日本の陸軍に関わって自衛隊の組織に日本共産党への拷問及び獄中での転向と警察がイデオロギー的な平和利用の立場を王室として機能させているという混乱につながっている。本質的な問題は第二次大戦での「中国人民への」加害が日本人にしか関わっていないことにあるが、その『日本人』とは天皇の政治的機能によって転向する人民の統合性なので、帝国日本の『日本人』と象徴天皇の『日本人』では政治的な歴史観が全くの別物であるということに一貫した歴史認識を唯物論的に構成することができないことの修正性がある。これは日本の政治が「誠実でない」という問題ではなく、天皇の歴史的立場が神話の時代から現実の暴力の否認として機能し、それを生活的な私的制裁や認識論の倒錯によって構造的な排除を促すことで自らの種を「被差別的な」歴史観の持ち主として特定するその身体的な享楽の方法に存在論的に依存しているということである。この立場に私が主観的に心情を投影しているという『転向』は、その内実から言ってシミュレーションでしかありえないし、その裏切りの内容も歴史修正の投影的な他者性に過ぎない。ただしこれは『中国の人民』の政治の内容に対して医学化が進行しているという意味ではないし、日本の「医療」が歴史的な道徳主義に依存して、その政治的な説話機能を文学的に配置することの批判を否定しているというわけではない。もしそれを否定するとしたら宗教の超越的機能を古代の血肉の連続として無理やり統合することで神々の子孫であることを証明するという試みを放射能汚染がどうしてコロナウイルスと混同される形でしか穢れとしての神事に体育祭の様な祓いを置き換えることが海洋汚染の神話性として機能するかがわからなくなってしまう。海洋汚染の神話性を容認することは海洋汚染を認めることとは別問題だし、放射能汚染の情報が穢れの排除のように文脈として統合されているからと言って、放射能汚染が科学的に主張されるべきで、その文学的な素材としての想像力を拒絶することとは別問題であるべきだ。明らかにロシアへの原発の攻撃はこの混同を意図的に利用してアメリカの兵器の購買性に繋げているが、それはまさに、それを否定することが「帝国日本の」保守的利益につながるという神話性で文脈化されるからである。したがって歴史修主義を批判するとき、宗教批判を文化構築の歴史性として文学的実践に方法論化する思考は必要不可欠だし、そのような歴史性を政治的レトリックと、演出のゲーム性と区別することも本質的に把握されなければならない。

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