創造の形式論理とアーカイブによって保存された記憶の継承問題。もし日本という国体的なシステムが歴史修正を基にした天皇家の領土的な神話認識の系譜性のことであるとしたら、憲法が天皇家の歴史編集の循環性の勅語であるか他国の軍事占領による憲法の正当性の記述統治の象徴的認識による改訂であるかは国体というイデオロギーにとってどうでもいいことではない。たとえば他国の占領による教育の理念が特定の外国に対して残虐行為を行ったという記述で統治が規定されるのなら『憲法の正当性の認識においては』占領した側の国の犯罪行為の歴史は外国の犯罪行為の立法責任として証言されるだろう。これは差別の性的実践を直接的に定義する統辞であり、もし占領した国にとっての公正さが、占領された側の抑圧によって抵抗される場合、その認識の記述は『外国の差別主義者が憲法の歴史を修正した』という行為によって自動的に置き換えられるということである。これは事実確認の問題ではありえない。なぜなら、その実際の当事者が証言をするという客観性を情報論的な操作で外部の侵犯に循環的に置き換えるという点にこそ、国体としてのシステムの歴史認識が神話化される法規範だからである。そして人民の集団的正義の歴史的計画はこの占領の抑圧に選挙の統計的処理内容として限界づけられることで、感染としての様態を規定する。これは生物学的なウイルスとしての感染と人民の集合計画による「道徳的感染」の区別が医学的な操作でのみ短絡的に歴史化されるということであり、それが確率論的な定義の「期待値」を___株式や物価と同じように___構成するのである。もちろん予防を期待値で測るなど間違っているのだが、プロパガンダの性的差異を憲法の正当性として認識する際には、そうでなくてはなならないという遂行義務の言説と区別ができないということが情動によって「感染する身体」の国民的熱狂の代置の記述を生み出す。もし「人権」と「政治」が別物なら、「人権」が「憲法」にしか関わらず、「政治」が「歴史」の記述性にしか関わらないことの意味がアプリオリな判断の認識において再考されなければならない。これを情報操作というのでは、法律に「違反」している歴史「認識」は、憲法の「教育」で意志を「修正」しなければならないという感情制御と同じことになるだろう。汚れ仕事としての政治が批評の構造を無視して、解釈における暴力を真実の応答から曖昧にしてしまうように。