マネーサプライの管理がストックオプションの購入とほとんど同じになる場合、ローンの金利を相場の変動の観点で考えても固定の観点で考えても貯蓄に対する課税は政府の規制と手数料の形式だけで定まってしまう。そうなると政府が「金融」という概念で通貨を管理できる要素は「これから継続的に消費できる要素」だけで財政が決まることになるから、それを決定するための役員報酬と債務証券の規範意識は現実に会計処理を時価総額で割り出す政治的立場と変わらなくなる。もし労働による消費が年金という「共同公債」を管理するための手数料の形式として税率が定まる場合、ストックオプション側に税率をかけることはインフレの物価を「これから購入する商品」に前もって定めることと同義であるのでマネーサプライの管理の方を実体経済側のリスクとして支払わさせることに「財政健全化」の意義があることになる。もし預金や不動産などに高金利がつくなら資産フローの管理に対する流動性の担保があるのでなければならないが、ストックオプションの意味なら、いくら流動性の担保を金利として保証していてもそこから預金の容量を拡大して公債の返済に充てるということはナンセンスになる。第一の問題は自分が生きている間だけストックオプションが資産として利用可能であればいいというものだが、この資産とは「自分が生きている間だけの年金公債」と翻訳すると認識が正確になる。そこで第二の問題である「自分が生きている間だけの年金公債を担保に為替レートで売買を行うこと」がどのように可能になるのかを考えると、それは企業購入として法人化された公共土木業のストックオプションを日本政府という名義で行うこと、になる。そこで三つ目の問題である誰に売り払うかが問題だが、それを年金公債を払う将来世代の消費供給として日本円そのものを定義すること、とすると現在の政治的職務の供与水準を正確に保障することになる。インフレを回避するという名目が成り立つのはこの水準であり、かつ日常品の価格が上がるのを正当化できる根拠もここに存在する。もちろんこれは少子化問題も教育の矛盾も制度の複雑さが生まれてきたことに対する税制になっていることも解決していない。本質的な疑念点は日本の社会保障制度は民間所得の最大化を促進するものになっていないことにあるのではなく、民間所得の最大化という前提条件がある場合のみ社会保障の希望が維持される、という点にある。そうなると消費税を下げることは年金に対する希望を捨てることになるという制度的矛盾が明白になる。もちろんだからこそマネーサプライの観点をストックオプションやローンの形態に依存させないことは重要だが、それはもはや「金融」の終わりという政治的帰結を技術化することなしには遂行されえないだろう。