• に登録
  • 現代ファンタジー
  • 創作論・評論

日本の「歴史」とディスクールの非連続性を戦争犯罪のエクリチュールが接ぎ穂する

日本に「戦争犯罪」が存在しないのは、普遍的理念として体系化されたシステムの言説が常に反転された外敵として良いエクリチュールの舞踊に循環的に歌唱化されたやり方でのみ科学的に体系づけられた記憶としての数字性に抵抗するからだと仮定してみる。日本において管理され体系化された政治システムは悪であり、本質的に自動化される文脈の抵抗の中に生活者としての体験が包摂される形式は善に包括されない良さとして在り、それが存在の普遍性に抵触する政治的侵犯は捏造の帰結と歴史的構成が同一であると考える。この場合、日本が行為主体として戦争犯罪の法規に理念的に抵触していたとしてもそれがエクリチュールの文脈の生活に包摂されるならそれは普遍的理念に包括されない存在の形式として良さを獲得し、その記憶を厳密に考証する行為は政治的干渉としての心的循環に侵犯作用を生じさせるので、そのような歴史的検証は存在すること自体が悪であり、外的な技術の持ち込みをフィクションに翻訳したものにすぎないとみなされる。逆に言うと科学的真理とは、数式の稠密さの不思議を体験作用の考証に厳密に適用可能な発見として相続される遺産として機能する限りで許され、それを冗長さに変換する文学的な批評は無意味なパラフレーズを繰り返すデマゴギーの一種として還元されるとしたらどうだろうか。この場合歴史的真実を特定の権力闘争の裏側の真実として報告する記述性は許容可能だが戦争犯罪のデマゴギー性をイデオロギー的な理念性として再構築する普遍的な再考はそれが善の機能に包括されるがゆえに偽だと判断されるとしたらどうだろうか。もちろんこの判断の様式は占領の方式において、イデオロギー的な偏向が強制されたという言説と共存可能であり、むしろそれを両立させながら、自らの金銭的受領の立ち位置を本来政治的なポーズでない歴史上の真摯さとして正当化するという継続性が許されるのではないだろうか。もちろん例外は存在するがそれ自体が外部からの技術的思考の持ち込みという形で文化的な差異として消費されるだけならば、性的な情報は境界上の侵犯と穢れに直接に関係し、情報処理の人材的配置として解釈の意味と能力の好みの裁定を取引上の交換だと錯覚するという外交的配慮の認識が文化記憶の戦争処理に犯罪として外部投影されるのではないだろうか。

コメント

コメントの投稿にはユーザー登録(無料)が必要です。もしくは、ログイン
投稿する