昭和天皇に戦争責任があったかどうかの回答は戦争に対する責任として何を求めるのかによって異なる。昭和天皇が日本の敗戦に対する責任があるかどうかは文脈によるとしか言えない。たとえばもし政権執行者としての統治責任があったかどうかという水準でいうと法律的には「あった」が日本の法令の実施具合からすれば「実質的にはないに等しい」となる。一方で植民地の維持のために天皇崇拝が掲げられた文化教育の神性さのシンボルとしての昭和天皇に対しては「責任がある」がそれは昭和天皇の人格に向けられたものではなく制度としての天皇制の位置にいた人物に対してということになる。それゆえイデオロギー的な被害感情の向け先として昭和天皇というシンボルに非難が向けられることを間違いとは言えない。ただしそれは歴史認識としては個人的な記述の問題である。だから韓国や北朝鮮が昭和天皇を侵略者だと名指すのは国際的な合意を得るかどうかという問題になる。しかし昭和天皇が「人間として」戦争政策に積極的に加担していたかどうかは歴史的に言えばそれは事実に反している。あらゆる戦争発言は人道性への加害だとして定義するなら話は別だが。さらに昭和天皇が大日本帝国の象徴としての人道性に対する犯罪として占領後の日本の植民地主義に対する責任があるかどうかという点に関してはGHQのイデオロギー的配置だとしかいえない。これは昭和天皇に戦争遂行の意志の有無があったかどうかとは無関係である。なぜなら戦前の法律的配置を戦後の法律的配置で断罪するにはアメリカの介入を正当化する言説で憲法を承認するしかないからだ。これに対して無条件的に昭和天皇に「人間としての」戦争責任を追及するかどうかという問題が生じるのは平和憲法の象徴的構想に対して戦前の日本帝国の歴史を誤謬として犯罪を考える場合だけである。それは歴史認識と歴史記述の水準を意図的に混同している。もしそれが正しいのなら戦前の価値観を再構築された人道主義的言説で断罪することからその歴史認識の合意を日本の歴史記述から検証するという行為自体が否定されることになるからだ。日本の軍事的指導者が戦争犯罪の責任者なのは彼らに制度的な罪があるからではなく戦争遂行者としての道義的な責任が東京裁判における有罪判決を構成する要素だからである。それゆえそれが「本当に」人道的であるかどうかは関係ない。それはアメリカ側の人道犯罪に有罪が下されなかったことからもはっきりしている。一方で日本が過去の植民地主義の犯罪に真摯に責任を取るかどうかは歴史認識の問題からいえば中国に対する敗戦をアメリカが日本に承認させるかどうか、そして台湾の実質的な統治権を間接委任領から明け渡すかどうかにかかっている。これは満州国の利権の合意を中国側が一方的に破棄したことの報復措置のことではなく中国の領土と国民党と共産党を含む人民に対する侵略の問題である。この問題をアメリカが承認しないので日韓合意も日露の敗戦の合意も曖昧になっているのである。それが典型的にあらわれるのが沖縄だというにすぎない。当然だが台湾を完全に中国のものとして承認するかどうかが問題ではなく、台湾を戦後日本の憲法と矛盾した要素として戦前の帝国的遺産の接収の問題からアメリカの介入政策を正当化するかの問題である。これは地政学的な軍事的問題であり、ここでも曖昧になる。つまり昭和天皇の責任を取らせるとはこれらすべてを履行するということであり、その憲法の正当性も戦争の間接委任統治の責任も当然問われなければならない。