ふわり灯る未来――小さな命
【小さな予感】
まだ少し肌寒い朝の光が、領主館の窓辺をやわらかく染めあげる頃。
ミツルは執務室の机に向かい、山のように積まれた書類へと視線を落としていた。結婚してまだ日は浅いものの、領主としての公務は遠慮なく押し寄せる。けれど、愛しい夫ヴィルとの暮らしは穏やかで、どれほど多忙でも心が満たされている――はずだった。
――ほんの少し前までは、それだけの元気が自分にあると思えていたのに。
近ごろミツルは、どうにも身体の調子が優れなかった。朝起きた瞬間から何となく重だるくて、頭がぼんやりとしてしまう。椅子に腰掛けて書類を眺めていても、ふと意識が霞むように集中が途切れてしまうのだ。
そんな様子にいち早く気づいたのは、先代領主の代から長年この館を支えてきた年長の侍女だった。
彼女は心配そうに、湯気の立つお茶をトレーに載せて執務室へ入ってくると、やんわりと声をかけてくれた。
「ミツル様、少しお顔の色が優れないように見えますが、いかがお過ごしでございましょう?」
その問いかけに、ミツルは苦笑まじりに頬をゆるめる。差し出された茶を一口飲むと、のどを通るあたたかさが少しだけ疲れを和らげてくれる気がした。
「……たぶん疲れてるだけよ。冒険してた頃と比べて、体力が落ちちゃったのかもって思うときがあるわ」
そこまで言うと、ミツルは軽く息をついて背もたれによりかかる。すると侍女は、さも何かに心当たりがある様子で口元に手を添えた。
「それというのは、もしかいたしますと……“おめでた”かもしれませんね」
“おめでた”――
その言葉が耳に届いた瞬間、ミツルの胸がどきりと鼓動を打つ。思いも寄らぬ指摘に、一瞬で言葉を失ってしまう。自分の中に新しい命が宿っているかもしれない――そう考えただけで、心の奥から得体の知れない熱いときめきがわき上がってきた。
もしそれが本当なら、何よりも嬉しい出来事になるだろう。けれど、まだ確かめてはいない。希望を抱いては、もし違ったときの失望が大きいかもしれない……。そんな考えが、同時にミツルの胸を締めつけてくる。
侍女は驚きに固まったままのミツルの様子を見つめ、少しだけ微笑んだ。
「どうか、あまりご無理なさらぬよう。もしやと思ったら、きちんとお確かめになってくださいませね」
ふと気づくと、湯気の立つお茶がすっかり冷めかけている。ミツルは目の前の書類に手を伸ばしつつも、そこに視線を戻すことはできなかった。
――もしかしたら、本当に私のお腹の中に小さな命が……?
そんな思いが胸を締めつける半面、言い知れぬ幸福感がじわりと広がっていく。期待に胸が弾む一方で、確証がないまま喜ぶのがどこか怖い気もする。
静かに耳をすませば、まるで自分の心臓がさっきより大きな音を立てているような気がして、ミツルはそっと胸に手を当てた。
どうかこの予感が、ただの思い違いではありませんように――。
そう祈らずにはいられない朝が、いつもより少し明るい光の中で静かに過ぎていった。
◇◇◇
【小さな命のはじまり】
心が落ち着かず、胸の奥にかすかな高鳴りを感じながら、ミツルは王都で回復術師として名高い古い知り合い――レルゲンへ文を送ることに決めた。かつては冒険の仲間として苦境をともに越えた彼。今は引退して、リーディスの王都で後進の育成をしていると聞き、顔を見られるだけでも安心できそうだった。
そうして数日もしないうちに、レルゲンはすぐに領主館へ駆けつけてくれる。昔と変わらないしっかりとした足取りに、ミツルは懐かしさがこみあげた。
「ずいぶん立派な領主様になったんだな、ミツル。だが――少し元気がないようにも見えるが、大丈夫か?」
いまだ冒険者気質を忘れていない、たくましくも穏やかな声。その響きにほっと胸が温かくなる。ミツルは少し躊躇いながらも、正直に事情を打ち明けた。
「レルゲン……実は、最近ものすごく疲れやすくて。侍女には“おめでた”かもしれないと言われたんだけど……ここの辺境には、ちゃんとした医者もいないでしょう? だからはっきりわからなくて……」
そう口に出しただけで、期待と不安がいっそう大きくなるのを感じる。早く知りたい――でももし違ったらどうしよう。そんな揺れる思いを、レルゲンは理解するかのように優しく笑んでみせた。
「なるほどな。じゃあ、さっそくわしの“生命の交感”を使ってみよう。ずいぶん久しぶりだが、まだまだ腕は鈍っちゃいないはずだ」
心細げなミツルを気遣うように、レルゲンは静かな部屋を選び、イスに腰かけるよう促す。部屋は外の喧噪を閉め出したようにひっそりと落ち着いた空気が流れ、ミツルの胸をなだめるように優しく包んでいる。
レルゲンが両手をかざし、口の中で呪文を唱え始めると、ミツルの腹部を中心にじんわりと温かな光が広がっていく。
――ああ、懐かしい。
かつての冒険でも何度かその回復の力に助けられた記憶がよみがえる。不思議と心まで和らいでいくような、この優しい熱。しばらくすると、レルゲンの瞳が穏やかに細められ、そして確信に満ちた声が部屋に響いた。
「これは間違いないな。おめでとう、ミツル。君の身体の中には、しっかりと新しい命が芽生えているよ」
まるで時が止まったように、ミツルは息を詰めた。レルゲンの言葉を反芻するたびに、じわりと目頭が熱くなる。嬉しさと安堵が入り混じった感情で、胸がいっぱいになるのをこらえきれない。
「……よかった……レルゲン、ありがとう。本当に、ありがとう」
ミツルは震える指先をそっと重ね、レルゲンの手を握る。遠い昔と何も変わらない、大きくて温かな手だった。彼はそんなミツルの心を解きほぐすように、軽く肩を叩いて微笑む。
「ヴィルにも早く伝えたほうがいい。あいつは不器用だから、こういうおめでたいことにはどう対処していいか分からんだろうが……きっと、おまえ以上に喜ぶと思うぞ。あと、何よりミツル、おまえはこれから自分の身体を最優先にするんだ。無理は絶対禁物だぞ」
「うん、そうする。ねえ……本当にありがとう。これから頑張らなきゃ」
ミツルの声には、これまでの不安よりもはるかに大きな希望が滲んでいた。けれど同時に、彼女の胸のうちはまだ揺れている。最近ますます忙しさを増しているヴィルに、どうやって落ち着いて話す時間をつくろう。彼はきっと笑顔で受け止めてくれる――頭ではわかっているのに、胸は緊張で鼓動を刻んでいた。
それでも、これだけは確かだ。愛しい命が宿った今、ヴィルとならどんな未来でも乗り越えられるに違いない。ミツルはそう信じながら、ゆっくりと目を閉じ、心の中で小さく感謝の祈りを捧げたのだった。
◇◇◇
【ふわり灯る、ふたりの未来】
夜の帳が降りはじめた頃、長い執務を終えたヴィルが、急ぎ足でミツルのもとへやって来た。さほど広くもない部屋のドアを開け、愛おしげな眼差しでそっと名を呼ぶ。
「ただいま、ミツル。昼間にレルゲンが来てな。随分と上機嫌だったんだが、俺に“いい酒だから、その時になったら開けろ”って言い残して帰っていったよ。これ、見てくれ」
そう言うと、手のひらに乗せた上等そうな酒瓶を、まるで宝物でも見せるように掲げてみせる。いつも通り穏やかに微笑むその姿を見つめていると、ミツルの胸は弾けるように高鳴った。レルゲンが去り際に浮かべた、あのからかうような笑みが脳裏をかすめる。
「なんでもないわ。ただ、久しぶりに会ったからでしょう。お酒好きは昔からずっと変わらないのね、あの人」
つとめて何気なさを装うように返事をするミツル。けれども、その声は自分でも分かるほどわずかに上ずっていた。ヴィルは怪訝そうに眉をひそめるが、あえて深くは追及しないようだった。
「そうか。ならいいんだ。……じゃあ、せっかくだしこの酒、ふたりで飲もうか。ちょうど仕事も一段落ついたしな」
その申し出に、ミツルはほんの一瞬ためらってから、小さく首を横に振る。
「……ごめんね、ヴィル。今夜は私は飲まない。それに……しばらくはお酒を遠慮したいの」
ヴィルの金色の瞳が驚きで瞬く。
「どうしたんだ? 体の具合が悪いのなら、早めに休めよ」
まっすぐ注がれるその優しいまなざしに、ミツルは小さく息を呑む。レルゲンの「ヴィルにも早く伝えてやれ」という言葉が、今も頭の隅で響いている。そっと呼吸を整え、ミツルは意を決した。
「ヴィル……実はね、レルゲンに診てもらったの。私のお腹に……赤ちゃんがいるんですって。わたしたちの子どもが」
一気に伝えたものの、その声は少し震えていた。しんとした静寂が部屋を包む。ヴィルは目を大きく見開き、息を呑んだまま、しばし言葉を失う。
けれど、その沈黙は長くは続かなかった。次の瞬間、ヴィルは思い切りミツルを抱きしめる。
「本当か……ミツル……本当に……」
その声は、彼が驚きと感激に心を揺らしていることをはっきりと伝えていた。いつも堂々とした佇まいを崩さないヴィルが、今は素直な歓びと戸惑いをあらわにしている。
「うん。レルゲンも、きっと間違いないって」
ミツルはそう告げると、ヴィルの目尻にわずかな涙のきらめきが浮かんでいるのに気づく。ヴィルはミツルの肩をそっと撫で、何度も小さく頷いた。
「そっか……おれが父親になるのか……夢みたいだ」
その言葉に、ミツルの胸は熱くなる。目頭がじんわりとあたたかくなり、ヴィルの気持ちがひしひしと伝わってくる。
「ありがとう、ミツル……」
ヴィルはそっとミツルに寄り添い、愛おしげに肩を抱き寄せる。彼の大きな背中に腕を回すと、ミツルも自然と微笑みがこぼれた。
「でも、まだこれからが大変なの。赤ちゃんが無事に生まれてくれるように、私もしっかり気をつけないと……」
ミツルが少し心配そうに言えば、ヴィルは決意を帯びた表情を浮かべる。
「そうだな。おれにできることは多くないかもしれないが、それでもできる限りサポートする。それに……おれも、子どもが生まれるまで酒を断つよ」
「えっ……あなたが?」
驚きの声を上げるミツルに、ヴィルは当たり前だと言わんばかりに笑みを返す。
「レルゲンが言ってた『その時になったら開けろ』っていうのは、つまりそういうことだろう? この酒は、赤ん坊が元気に生まれてきて、落ち着いた頃にふたりで祝杯を上げるためのものなのさ」
「ふふ、そうだね。きっと最高に美味しくなるわ。その時が来るまで、楽しみに取っておきましょう」
そう言って見つめ合うと、二人の間に優しい静寂が訪れた。小さく灯されたランプの灯火が、部屋の壁にふたりの影を揺らす。まるで、このささやかな奇跡を祝福しているかのように。
ヴィルの腕の中にいると、不思議と不安も遠ざかっていく。小さな命が芽生えた幸福感を分かち合う瞬間は、暖炉の火よりもずっとあたたかく、まばゆいほど柔らかい光で二人を包み込んでいた。
◇◇◇
【ふわりと灯る未来――小さな命に寄り添って】
それから数日、ミツルは自分にできる範囲で、少しずつ執務のやり方を見直し始めた。あまりにも大事にされるのは気恥ずかしい気もするけれど、侍女長や部下たちは次々と「無理をなさらないでくださいね」と声をかけてくれる。彼らの温かい思いやりに、ミツルは素直に甘えてみようと心に決めた。
ヴィルも、普段から責任感が強いというのに、このごろはより一層、ミツルの身体を気遣うようになった。何気ない朝食の席でも「ちゃんと食べられているか?」とそっと訊いてくれたり、執務室にふらりと顔を出して「疲れていないか?」と囁くように問うてきたり――そんな小さな優しさの積み重ねが、忙しさの合間にミツルの胸をほっとあたためてくれる。
お腹の中のまだ小さな命を想うだけで、胸の奥に灯る幸福が増していくのを感じる。どんなに慌ただしくても、ヴィルと手を携えているかぎり、きっと乗り越えられるはず。そう信じられるだけの確かなぬくもりが、ミツルの中にはあった。
優しく穏やかな日々がさらに輝き出すとき、その先にはもっと眩しい未来が広がっているのだろう。まだ小さく始まったばかりの“わたしたちの物語”――そう思うと、ミツルの唇は自然とほころんだ。
夜になると、ふたりは星空の下でそっと視線を交わし合う。ヴィルの手の温もりが指先に伝わり、もう片方の手は愛おしそうにお腹の上へ。そこから感じる小さな命の鼓動は、まるで優しい調べのようにミツルの心を満たしていく。
「明日も、きっと大丈夫」――そんなささやかな確信が、暖かい風となって館の中を吹き抜ける。
新しい命の訪れを告げるその風は、静かに、でも確かに二人を祝福していた。ふわりと灯った未来が、今、柔らかな光でミツルとヴィルを包み込み、さらに深く優しいところへ導いていく。