おはようございます。
3話目更新しました。
小次郎を落馬させた相手にみんな振り回されているところですが、大宮司家(宇治家)と恵良家の間に、何か過去にあったようなあったような。
(私のツイログ遡ると答えっぽいものが見つかるかも知れませんけども)
さて阿蘇一族、あるいはこの時期の阿蘇一族と近しい活動の菊池氏についての一般書にも「社家出身の」って小次郎のことを書いてるのがあるんですが(一般書自体がそう無いんですが)、
社家……社家なのか……いや違うだろ……
とは私は思ってます。彼ら自身の認識がどうだったかは不明ですが。
この時代の阿蘇社って、基本的に中岳の火口の近くにあった上宮(天宮)のことなんですって。御神体は第一火口を始めとする3つの火口。
で、少し下って今の山上神社とか、ほぼなーんも無いんですけど古坊中遺跡とかの辺に中宮。
一番下の、宮地にある阿蘇神社はこの時代、下宮でした。
これを引っくるめて「阿蘇三社」だったらしい。
いや柳田先生か誰か、最近の本で「阿蘇社と建軍と甲佐で三社」みたいなこと書いてたぞ?研究者ー‼︎ ちょっともうどうなってんの‼︎ ていうか上宮下宮なら「三宮」って書かないか?いやそれだと「肥後一の宮」とかと紛らわしいのか?
……まあ、すげえややこしいんですよ。阿蘇社の社家。なんか一代交代制というか、大覚寺統と持明院統みたいに、ひとつの役職に定められた2系統の家があって、交代で就任するみたいな。
で、上宮を管轄するのは天宮祝とか、役職が細分化されてて、役職によって就任できる家が決まってる。
しかも農民の方々とは基本的に交わらない。
ほんで、調べだした時に恵良家って何の役職だったのかと思って、各役職とお家調べたんすよ。
……恵良家、ねぇよ。就ける役職。
歴史を扱った資料としては古過ぎるのでアレなんですが、阿蘇神社の宗教資料としては十分だと思える論文集『中世の神社と社領』(杉本尚雄)を見ると、祭祀が延々書き連ねてあるんですが、「流鏑馬あり」とか「競馬あり」とかそういう行事があるんですよね。こういう大掛かりなのにはまあ人手が要る。
永青文庫の『下野狩日記』にも、狩のチームの中心である宗戸(大宮司の親戚とかで構成)に恵良家が入っているのが確認できるので、神事に参加しなかったわけではないんですけども。
私達が普通に考える「社家」の範疇に収まってるのは、阿蘇神社が成立し、周辺の神社を飲み込みながら、そこの神官を取り込んでいった、その神官達で構成されており、
恵良家のような「家臣」は、大宮司家が社領を管轄する存在として武家的な性格を帯びていったと同時に、周辺神社と同様に一族郎党に取り込んでいった周辺土豪なんじゃないかと思ってます。
まあ、恵良家、どっから来たかイマイチ判ってないんですけどね。大分の豊後森駅の近くに恵良ってトコがあるんですが、もしかして発祥の地かとも思うんですけど、小次郎の弟が豊後の方の地頭職を後々貰ってるんですよねえ。どっちが早いんかわからんのです。
※ 杉本尚雄『中世の神社と社領』(吉川弘文館、昭34)は当時で1,200円の定価する学術書です…鶴屋百貨店の古本市に出てたのを買った時は2万円して、新幹線乗る前だったので短時間で脂汗出るほど悩みました。
『下野狩日記』は飯沼健司編『阿蘇下野狩史料集』(思文閣出版、2012)に収録されています。こちらも定価7,500円(税抜)の学術書で、もしかしたら版元品切かも知れないので、出版社か図書館へ…手元に欲しかったので買いましたけども、hontoで取り寄せたら鹿児島のジュンク堂から送られてきました。