さて2話目更新致しました。
創作なので断定的に書いていますが、この時期の阿蘇大宮司について、個人情報はほとんど無いに等しいです。
特に烏帽子親が判っているのは、たぶん小次郎の次男ぐらいだと思う(阿蘇文書に諱を与える書状の写しが残っている)。
なんでコイツだけ残ってるんだろう、惟時や惟直なんか大宮司職継いだ証拠書類(関東御教書とか)全然無いのに…。
歴代大宮司の名前だけ羅列した系図(阿蘇家に代々伝わっていたので「正本」と呼ばれてますが、これを系図と言って良いのか…)を見ると、同じ名前の人がいくつか見受けられるので、烏帽子親が自分の偏諱を与えたような人と、以前あった名前をそのまま頂いたパターンと、烏帽子親がなんか捻り出したパターンと混在してるのかなと思います。
通り字は「惟」が主なんですけど、時代によっては惟じゃない時も何代か続いたりあります。平安前期辺りにもそういう時があるので、その時はもしかしたら、現在の宮司家に連なる宇治家ではなく、他の社家出身の人かも知れないです。宇治家の先祖が惟人命で神の係累云々、という神話は、研究によると平安時代に成立したっぽいです。元々延喜式には阿蘇の神は三柱しかいなかったのが、平安時代の終わりには今の形に十二神集められているので、並行して今の形式ができたのかも知れませんね。
個人情報保護法の施行で今はきっと無いと思うんですが、神社の神職さん名簿(神社本庁での位階とかも全部載ってる)みたいなのが昭和の時代にはあったんですよ。
それ見ると、阿蘇神社の神職さんの苗字、鎌倉時代とかにも記録がある苗字が並んでて、ちょっと手が震えますね。
先の宮司さんはピンチヒッターみたいなものだったので惟付いてなかったんですが、現宮司さんはやっぱり名前に「惟」が入ってて、宮司が交代されたと聞いた時は名前見て大変興奮致しました。ていうか最初字だけ見て「これむら」って読んだから大変興奮したんですよ。これむら。お分かりいただけただろうか(わからん)。
まあこの時期から戦国時代にかけて、
阿蘇一族は家臣団にも軽率に「惟」の字を与えるので、
惟豊あたりの時代になると「また!知らん惟がおる!!」ってなってくるんですけど、頑張って…私も頑張る…。
まあたぶん小次郎やその親が諱で惟を名乗れてるのは祖父の血じゃないかなという気はします。異本系系図の方で小次郎の大伯父についてメモられてるのがあるんですが、諱は記録されてないんですよねナンデカナ。
ちなみに、今後に絡んできますが、恵良の苗字は小次郎の父の父方ではなく母方のものです。
正本系図、系図としては実になる情報ほぼ無いに等しいんですが、謎のメモが書かれてる人が時々いるんですよね。
たとえば小次郎の孫とか、何人か「御長六尺二寸」と身長が180cmぐらいあったよ、なんてことが書かれてて、すげえ背が高かった、とメモられてるようなんですが、
今の宮司さんがテレビに映ってるのとか見てると、たぶんこの家、元々遺伝的に背が高いような気がする。その中でも6尺あるような人がメモられてそう。
まあ身長で一番謎なのは「御長九尺二寸、鹿角ニテ」ってメモのある、平安初期ぐらいと思われる人ッスね…この人、人間なのか本当に…シシ神様とかじゃないのか…。