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中世阿蘇大宮司の(下世話な方の)話

鎌倉後期や南北朝時代の武将だって、足利尊氏とか楠木正成とか言われてようやく「ああ〜」と思い至っていただけるかと存じます。
戎光祥さんが『南北朝武将列伝』を南朝・北朝に分けて刊行してくださるということで、ようやくマイナーな人も…いや南朝編の最後に「恵良惟澄」の名前があるんで叫びましたよ私は。まだ刊行前なのでどんなことが書いてあるかは知りませんけども。
まあジャンプで北条時村来ましたしね(監修の名前見て読むの続けるか迷い始めた)、5年ぐらい前からちょっと南北朝時代来てますからね。
しかし武将ですらようやくなのに、武士団っぽいことやってるけど元を正せば神官一族って荊の道過ぎないか。まああの諏訪頼重気持ち悪くて人気出そうだけども。

阿蘇大宮司家の面々の顔ですが、この時期の大宮司は似絵とかが残っていません。
戦国時代の惟豊から3代は菩提寺に似絵ではなく、なんと彫像が残っているのですが。彫刻にするあたり、大宮司自体の神格化でも図ったのではないかとも思えます。

一次創作で小説を書く時、登場人物自体はある程度絵に起こして身体的特徴も書いて設定付けて(そうしないと書いてるうちに表記揺れを起こす)いたのですが、阿蘇家の方々については蛍丸(実物)調査におけるWEB上の第一人者であるしわすさん(Twitter: @khz48)のイラストが私の中での固定になっております。
なので小次郎には鼻傷がつきました。惟直は爽やか青年ですし惟時はイケオジです。
ただ、本物の小次郎の顔に傷があったかどうかは、本人が何も残していないのでわかりません。
小次郎は南朝から恩賞が発給されるまでに、7箇所の傷を体に負い、様々なものを喪っていますが、細かいことは分かっていません。

阿蘇大宮司家は惟時の前後も結構後継者に困ってる様子が残された譲状から窺えるんですが、
近所の菊池武時さんとか色んな女に手を出してめちゃくちゃ子供作ってる(系図参照)のに、阿蘇一族はそういうの無かったんかな…と下世話に考えております。
愛人作ってるほど金が無かったか知らんけど、小次郎も置文読む限り、妻はただ1人なんですよね。まあここは十分子供いるけど。
惟時も惟直と惟成の他に息子居なさそうだし、惟時の祖父が大宮司になった時も、元々継ぐはずだったその兄がなんかやらかして勘当され、しょうがないからその弟の、年端も行かないほんのガキンチョが大宮司を継ぐことになったという記録があるので、なんだこの人材難。
社家という性質上、大宮司も一族の社家から嫁取りをしてたのかな、そして側室無効・継室有効みたいなルールあったのかなとも思いますが、証拠が無い。
ただ、祝(はふり)や神人の家は確か計12家あるんですが、その間で婚姻を繰り返していたようなので、同じようなことがあったかも知れない。
しかしこんなことしてると少なくとも祝の方は血族婚になってまずかったんじゃないかなと勝手に心配します。

そしておそらく愛人をそこら辺に囲うほど、阿蘇一族の支配する郷は裕福ではないというか、大宮司の宇治家も持ってるのはあくまで「阿蘇社領」ということもあり、阿蘇社用の積立金とかが優先で、私的財産はそこまで莫大ではなかったのではないかなとは思います(鎌倉時代は社領も領家支配を受けてて取り分減らされていましたし)。カルデラは火山灰の土地で、下野も書いてのとおり沼沢と言っていい湿った土地で、広いけれど土壌改良しないと米が取れなかったはずなのです。
その代わりと言ってはなんですが、南郷谷には白川があり、大宮司館もその近くにありました。
おそらく、米が取れない分、この白川を使った水運による商売で、財を得ていたのではないかと思われます。ええ壺とか遺跡から出てきてるみたい。たぶん売るものは肉と毛皮。知らんけど。

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