得られたこととか、記憶が鮮明なうちに書いておこうかと。
多分「何を今更常識的な」レベルのことしか書いてないとおもうので、生暖かく見てください。
・三人称の語り手について
三人称の語り手のスタイルは作品全体の雰囲気を操作できる非常に強力なツールだと感じた。これは本質的に一人称の語り手がキャラに依存して作品の雰囲気を決めるのとなんら変わらないと思う。
毛玉の場合、ナレーターは自然科学動画のナレーションくらいの位置付けで、サバンナのライオン一家をとらえた番組みたいな。
ここでライオンの子供が出てナレーターが「かわいいですねー」って言うとこの作風だとさめてしまうので、意識的にそういう風にならんようにしてる。ナレーターに言わせるんじゃなくて、かわいいライオンを撮影すべし。
もちろん、三人称の語り手に性格を持たせて〈物語に介入できないが意志がある語り手〉にすることで読者に共感させるという手法もある。
これは映像作品のナレーターをどのようなスタイルにするかって考えるとわかりやすいかもしれない。
例えば、馬鹿げた主人公に硬質で専門知識もありそうなナレーターを組み合わせると強引に読者に「本当にあるかもしれんな」と感じさせることができる(男塾の民明書房なんかもこれだし
https://kakuyomu.jp/works/16817330659003833039 みたいなのも)
ナレーターがやさしく見守るタイプなら動物ほのぼの系動画とか、煽るタイプなら水曜スペシャルみたいにできる。戦争ドキュメンタリーで淡々としたナレーターと同情的なナレーターだと雰囲気かわるでしょ?
話を戻すと、ライオンの子供に当たるリィンに対してはナレーターは中立だ。(例外もまぁある、二話目のコミカル寄りの所とかキアの家にいく回とか)
リーシャに対しては若干内面に踏み込んでいて、同情まではいかないがリーシャの心情をすこしはわかってるくらいの位置にナレーターがいる。これは俺の力不足もあるんだけど、そのくらいの位置どりでないとリーシャというキャラを伝えられなかった。
この辺の塩梅がわかったのが収穫だった。毛玉の場合はかなり抑えたナレーターなので、自制のコツがわかって引き算の表現に抵抗がなくなったのも大きいなー。常にどこまで削っても伝えられるかとの戦いだった。
映像部分に関しては自制してないが。なのでシャレード多様といい、web 小説というよりは映画や漫画の手法に近いかも。
・ダレンの一人称について
ダレンの一人称って下手したら三人称のナレーターより説明が足りないんですよ。自分の感情に無自覚というか……そんなんだからリーシャが拗らせたんだぞ。
まぁ、だからこそ、フラットな三人称とダレンの一人称をスムーズにシフトできてるんだけど。
実質ダレンの一人称になってるところでも意図的に「俺は〜た」構文は使わないようにしてた。
この前提を破ったのが最終話のラストや、俺たちは花を買ったのとこ。(花のところは誤字ではないことを明確にするのに付点もふってある)
なんでダレンをそういう扱いにしたかといえば、まぁリーシャが言ってるよね。「私が好きになったのも、少し無関心で距離感のある、あのダレンなんです」読者にとっても距離感を出すためにそうしてるというか。
正直書いてる時は計算してないので、これは結構結果論で言ってるとこあるよな。ひたすら脳内映像のなかのキャラを書いてるだけだし。そういう人間だからそうなるだろうという自然の成り行きでそうなってる感はある。
・三人称一元視点のシフトについて
「人称が途中で変わると公募では必ず落とされる」みたいなこと聞いて「まじか。やっちゃだめなのか」ってビビったんだけど、改めていろんなプロ作家の作品みるとそんなことなかった。
三人称一元視点の誰にスポット当たってるかは、カメラ位置と向きと読者とカメラの距離感であるから、カメラ位置を伝えやすいスタイルなら動きまくっても読者はついてこれる可能性があがる。
なので、三人称一元視点のシフト多用したり神の視点三人称使う作家の作品みると、必然的にシャレードや情景描写もそこそこあると思う。それによってカメラが今何を映してるかが自然に読者に伝わるのでみたいな。
情景だけでなくて、登場人物の視線であるとか心理的な注目がどこに向いてるかもなので、まぁ視線誘導だよな。
三人称ほにゃららはこういう形式とか覚えるんじゃなくて(俺は今でもこれはわかってない)読者がカメラ位置とカメラの目線についてこれるかを気にしてれば、人称はわりとどうにでもなる気がした。気がしてるだけかもしれない。
逆に描写を削ぎ落としたスタイルと一元視点のシフトは相性が悪いので、そういう意味での「公募では落とされる」なのかも。side 使いが現れたのもそういう理由がありそう。
一人称であれば描写がなくてもカメラ位置が自明なので、描写を削ぎ落としたスタイルと一人称は相性がよく、これは web 小説の傾向とも一致してると思う。知らんけど。
・現在形の多用
よく、文末が「〜た」だけだと単調になるから混ぜようとかある。それはそうなんだけど、最近気づいたのが現在形にするか過去形にするかで、カメラと読み手の距離感や運動主体感が変わるって点。
特にこれは主語を落とした暗黙の一人称で顕著で
『ドアは開かなかった。鍵を差し込む。回らない。』
だと、語り手が鍵をガチャガチャやってる感が強い(カメラが語り手の手元にある+運動主体感が強い)
これを現在形と過去形の順序を逆にして
『ドアは開かない。鍵を差し込んだが、回らなかった。』
だと、ちょっと距離感がない?
うまい言い方が思いつかないんだけど。
逆に距離感をとるべきところで現在形にしても違和感が出てくる。
三人称だとただでも運動主体感がとぼしくなるので、バランスを取るために現在形を多様したくなるみたいなとこあるのかもしれない。
最終話の『火口原を越え、切り立つ尾根を越え、広がるのは一面の海。翼をすぼめ、ねじれた振り子のように宙を滑る。海食崖を駆け上る風に翻〈ひるがえ〉る。』のとことかそうで、読者の視点を極限までカメラ位置である鳥に同期させるために意図的に現在形と体言止めで畳み掛けてる。離れたところから撮影してるより鳥にカメラ背負わせた方がスピード感でる感じ。
そのあと『抱えながら尾根を縫う。海から吹く風が毒を押し流すのだ。尾根を境に蘇った緑が山肌を鮮やかに塗り分けて、所々にかかる霞を越えるたび、視界の端で波に散らされた日差しが弾けては瞬く。』で、押し流すのだ、のところで一旦離してる。次の視点がカメラがパンフォーカス気味になって広範囲を映すから。で、映るものがなめらかに流れてる感じのために、尾根を〜から瞬くまでは、悪文ぎりぎりまで文章を繋いでる。
みたいな。このへんは最終話に近くなったあたりで自覚的になった。
処女作の迷宮を出る〜や毛玉ゴーレムの中盤くらいまでは、単純に文末を揃えるのを避けてるだけなので、今見返してみると色々と見苦しいかも。
まーこれも書いてる時はいちいち計算してなくて絵を描いてる時感覚でやってるみたいにやってるので結果論で語ってるとこはあるな。
いずれも、まだ書き始めたばっかりの感想なので、創作論として正しいかはわからん!
なので近況ノートにこっそりおいておきます。