今書いてる小説(迷宮を出る〜)の主人公は可視光が見えません。代わりに魔素が見えてるのですが、魔素は基本的に生物にぼやーっとあるだけなので、一種のロービジョンです。
視覚障害について書こうという動機は一切なかったのですが、書いてたらこうなりました。そもそもこの小説は作者の癒しとトレーニングのために思い付いた光景を綴っているので、典型的な娯楽小説の体は成していません。作品を通して伝えたい強いメッセージ性もないのです。
創作で障害を扱うのは難しいという印象は、現代社会ではなかなか否定できないかと思います。
その中でも世間に納得をもって受け入れられやすいのが障害の当事者が書いている作品でしょう。逆に、とある障害を扱った作品を書いた漫画家が自称医者に「これはおかしい。なんも知らんやつが書いてる」と責められて、当事者であることを明かしたという事例もありました。
俺はこの、当事者でなければその手の話題にタッチしてはならないって雰囲気が好きではない。そりゃ、一番わかってるのは当事者だろうけど。当事者以外が扱ったら、ネタとして消費している!ってのは極論がすぎるかと。
俺はたまたま、魔素で世界を見ているキャラクターを描きたかっただけで、ロービジョンであることはキャラクターの主体にはしていないのです。
限られた視覚情報の一人称で書いているので、情景描写に普通の可視光による視覚を使えないし、人の表情もわからないというすごい縛りプレイを処女作でやる羽目になってるんですが、どうしてこうなった……
主人公の彼は特殊なアーティファクトを持っていて、補助的に視覚情報を得られるのですが、その程度というのが『はじめての時は一面の明暗で、十五年かけてやっとぼんやりとした大きな形が明暗でわかるくらいで遠近感はほぼないし何が見えてるのかわからないことも多々ある』くらいです。
多くのファンタジー作品だと、先天性もしくは若くして視力を失った盲人が目を治療するなどして視力を取り戻すとすぐに見えます。これはこれでファンタスティックなので否定するわけではないのですが、現実はそうはなりません。脳の認知能力が無い(失われている)からです。見たものを処理する能力は、何年も十年二十年かけて脳が(再)獲得するものなのです。
本作の主人公の場合、年齢を経てからだったり、外部からの補佐なのもあって遅い感じですね。
この辺は知覚心理学の知識がある方なら「ん?」と気づくかもしれません。知覚心理学に関しては、素人が本や論文を漁った程度の知識しかないので本職の方に突っ込まれると死んでしまうのですが。
昔、少々怪我をしたのをきっかけに知覚心理学に興味を持ちました。当時の経験も含めて脳の柔軟性(これは失われる方にも!)に驚いたというのがあって、その辺のエッセンスにも少し触れています。クオリアとは書いてないけどクオリアぽいことに触れたり、遠刺激と近刺激とか、まぁ詳しい人に突っ込まれると死ぬんですが。
結論としては開き直りです。目を手術してすぐに見えて見えたものもわかるのが受け入れられるなら、多少アバウト知覚心理学的解釈をしても殺されはしないだろう! みたいな。
不真面目ですみません。ファンタジーなのでなんとか許されないかなぁと思っています。