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『迷子の惑子のユースティア』を書いて

https://kakuyomu.jp/works/16816700427499612478
お読みいただいた方も、そうでない方も、ありがとうございます。踏んで下さった物好きな方用に、おもてなしのボーナスアートを描いてみました。当初はペンタブを引っ張り出してきて、頭を悩ませていたのですが、数年来絵を描いていなかったので、デジタル絵は断念しました。ご勘弁ください。

こんな具合で作品が推移しました、という内容を公開しておきます。あまりこういう作品解説は自分で書くものではないのですが、自分の筆で書かなければわからないこともあると思うので、自分でまとめていきます。

規約20000文字制限の内、全19997文字にて執筆、割り振りはこう(カクヨムは原稿用紙と違って、文字数が直接カウントされるため、非常に管理しやすかったです)。
「はじめに」222文字
「いりぐち」1999文字
「てんびん」4444文字
「たいまつ」3333文字
「つるぎ」 3333文字
「おくそこ、そしてでぐちへ」6666文字
正義論を必要数字内で取り扱うためには、どうしても内容が難しくなります。そこで、できるだけ入りやすいように最初をひらがなの童話→軽文学→漢字を用いた対話形式で試験的に書きました。
本来、実際の神学におけるユスティティアが持つ装飾品で一般的なものと言えば、1.天秤(アストライアの軽量天秤)2.剣(ネメシスの剣)3.目隠し(被告人にも起訴人にも与しない態度)4.束棍斧(ファスケス)5.松明(自由、正義、真実の3通りの徳を象徴する)の5つであるのですが、4.のファスケスは近現代史上に猛烈な悪魔が登場したこともあり、正義と言うより「立法府を履行した暴力」のイメージがついてしまったのです。そこで、繰り上げで松明を登場させるに至りました。

ここからはおまけ、知らなくてもよい元ネタ集です。

てんびんの元ネタはちょっと本文中に触れてしまいましたが、正義の相対主義、『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶオトナ帝国の逆襲』から「野原ひろし」です。私が子供の頃(~大学生1年目くらい)に採っていた考え方です。
この頃はまだ、「正義とは一方的な正悪の対比だ」とか、「戦争とは勝てば官軍負ければ賊軍の歴史に編纂される」などのカーライル的な実証主義が私を掴んでいた頃のことです。
私がもし「子供の頃を思い出せ」と言われれば、間違いなくこんな子供時代を思い出すことでしょう。複合的な理由からここでは割愛しますが、いずれにしろ私はこの考え方を離れるに至りました。

たいまつの大元は、日本における最大の新興宗教、創価学会の創立者「牧口常三郎」の『価値論』(戸田氏補訂)です。またM.サンデルの『これからの正義の話をしよう』の考えも、ここに少し加えました。
『価値論』は私が3つの中で最も新しく触れたものになります。まず、私は創価学会の信者ではありません。それどころか、創価学会を「邪教」と説明する、ある宗教団体に在籍しています。ではなぜその私が、異なる教団のうち、最も権威高い本を読むことになったのか?
私が『価値論』をそれと認識したのは、インターネット掲示板2ちゃんねる(当時)で、「批判するならこれくらいは読んでおけ」とアンチが擁護していたからでした。今思い出しても新鮮な光景でした。「あれほどまで嫌われ者だった創価学会」に擁護者がいたのです。それは私が初めて目撃した権威の保証でありました。
「そういえば私の教団でも、2代目戸田氏以降は悪く言われるが、牧口という人物はどうやら良い印象に映るらしい。いったいどんな人物なのだろう。」
そう思いながら本をアマゾンで買ったのでしたが、私とは実に怠惰な人物で、3年ほどカートに入れっぱなしにした挙句、購入後半年は本棚の肥やしにし、最終的にこの書を読んだのは最近も最近です。
内容はまあまあ良かったです。認識論哲学へのアプローチを計ったこの書について、私は多くの場所に共感できる点を見出しました。ところが、もちろんすべてに賛同しえたわけではありません。最も賛同できなかったところ、「それが今回取り上げた『正義』を巡るテーマ」なのでありました。私から言わせれば、彼の書かんとしている正義とは、せいぜい日本人が野原に語らせて言うように、「価値判断の内側に位置する美徳」に過ぎない。私はこれが正義の在り方だとは思わないのです。

だから私は最後につるぎを用意して、私の感じた正義を描こうとしたのです。これはロックの『寛容についての書簡』、ミルの『自由論』、何よりスミスの『道徳感情論』など、ヨーロッパの偉人たちの中に連綿と生き続ける「造物主(デミウルゴス)の秩序」の息遣いを持ってきたかったのです。
先述のてんびんの言い分では、達成されない課題が2つ残されていることにお気づきでしょうか?
①正義と言う名の美徳には、そのものの中に「正義を振りかざしてはならない」との考えが込められている、などと考えている人物が多い。ですが、私は相対主義の考え方でもまだ「振りかざす余地がある」ように思えてなりません。だからこそ、誰なんびとであっても、決して個人単位で振りかざしえない場所に正義を確保する必要がありました。そのため社会にその所有を仮託すればよいのではないか。それが社会契約説の始まりであったはずです。
「善意の対義語はまた別の善意 である事を私は快く認める。しかし、正義の対義語は別の正義 という訳ではない」、この姿勢です。これによって正義は絶対に振りかざされないし、正義そのものが理想的に機能するように思えます。個人が所有してよいと神様に認められる範囲はどこか?ここを私は説明したかった(補足すると牧口先生も『価値論』pp120-127にて準ずることを書いているため、内容が必ずしも対立するわけではない)。
②正義は強者によって振りかざされてはいけない。一方で、溺れる弱者が必死にしがみついたとき、ともに沈みゆくような物であってもならない。正義がもし相対的に存在しているのなら、この悲劇を抑止することができないのです。良い意味での硬く定められた公平さを持つ正義が、私たちの社会の基礎的な土台として組み込まれていたなら、私たちは安心して暮らせるようになる、私にはそんな気がします。
万人に対して公平である必要が正義にあるのなら、これは「各人にこうあってはならないこと」を命令する存在であることが望ましいのではないだろうか。これを実定法と呼ぶこともあれば、失業保険と呼ぶことがあってもよいのですが、私たちが市民生活、経済生活をする中で、外的要因などの被害からそれまでの生活の線路を外れ、そのまま彼方へ消えていくことを、正義は望ましいことと思うだろうか。

「弱きを扶け、悪をくじく。」私はそれを好ましい人物だとは思うのですが、正義の人物だとは思わない。義憤は正義の最大の敵です。「正義【Justice】」の中には、「丁度それ、まさにそれ【just】」なる副詞が潜む。これは「正確な【correct】」の意味に近づくための、手助けになるでしょう。文中の「感情に流されることなく、正しい行いを守り通す」(この出典はスクウェア・エニックス、『グリムノーツ』の正義のオーブの説明)。すなわち、正義とは流動的であるよりは硬直的である方がその恩恵は確かになり、硬直的な概念である正義に、我々人間が流動的に仕えることが大事なのではありませんか。皆様の正義の考え方についてもよろしければコメントください。


これまでひどく具体的に正義について書いてきましたが、私の正義論は完結されているとは考えていません。こんな若造が既に完成させるなんて人生ぬるすぎ、つまらんことです。誰かさらに新しい観念を欲する姿勢は私たちのをとりまく社会の中で「対話者や第三者を傷つけないために必要」であり、常に追求するべき眼として養われることに越したことはないでしょうから。


最後に、「おくそこ」が地下牢で、主人公である正義の女神が目隠しをしていない訳。これはもちろん人間がもつ“罪”の説明です。原罪と呼び変えても良いのかもしれません。作中において3者の正義を見ながら、その結論をあえて一つに絞ることは、文学においてするべきことではないでしょう。文学とは結論に肉薄することはあっても、その本懐とは過程の描写にこそあり、選択を強制するものではないのですから、ここで正義ではなくあえて主人公は罪に臨み始めることになります。
罪とは汚れている風に見えて、実はその背後に温もりがある場合も多分にあります。優しいがゆえに、愛があるがゆえに、その行動が曲がり続ける場合がある。そえはたとえどれほど正しくあり続けようとしたとしても、です。
これは私たち人間がエデンに生きる者から切り離されて、不完全さが私たちの肉体を構成する要素の一つとなってから、避けられない事であるのです。ですから、悪意を憎むだけでなく、その中のドロドロと腐敗した容赦ない罪を、いかにして清めていくか、またいかにして受け入れるか。私には人間とはこの連続であるように思えてならない。これは私が今の宗教と向き合い続けるテーマなのです。
私はやはり宗教を「この俺には必要のない物」と切り捨てることはできない。薬も毒もみな抱きかかえながら歩いてゆくと、私はあの時、造り主の神様に誓ったからです。

先述した「義憤とは正義の最大の敵」を翻すつもりはありません。どのような性質の物であっても、怒りが働きかける力には、対象に恐れを植え付ける性質を持つことで、相応にマイナスの結果をもたらす場合があります。それは対象がまじめであればあるほどです。さはさりながら、稀に義憤が呼び起こす肯定的な力も確かにあることでしょう。

かつて私の見た不思議な夢を紹介させて下さい。
夢の中で私はふと気づくと、檻の中にいました。
ずっと背は小さくなり、幼い子供として外からの光に照らされながら立っています。そして大勢の人だかりが、動物でも見物するように、私を見ているのです。中には背伸びして、こちらを下目で見る男性客もいるし、当時のガラケーでこちらを撮影する女性客もいます。私は何をするわけでもなく、檻の中でその人々を見返すだけです。ただ、自分ではその様子を見ながら、何か恐ろしい気持ちが燃え盛って、言葉を発することができず、ただ客を見ているのです。
その時、見物人に何やら激高しながら、急いでやって来る二人組がいました。私の檻の前まで、おしわけかきわけやってきたのは、父と母でした。「私の子供なんだ」、そう言っていたのかもしれません。私を前にどんな力か、鉄の檻を手でねじ開け、人目を気にせず私を助け出し、夕方時のテーマパークを後にするのですが、決まって私は両親に両の手を取られながら、体重を預けるなどして歩いたのでした。いざあの時を振り返ると、あの怒りに私は助けられていたことがとてもよく分かりました。我が子を見世物にされ、それに怒ってくれるような親(といっても夢の中のことだけれど)でなければ、その手に温もりが感じられることはないのかもしれません。
ゲーリングがシュトライヒャーに反論したとき、娘はどう感じたでしょうか。アルキノスが中立的であるべき講義中で「親を侮辱されて憤りを覚えないものはそしられるべき」と例示したのは何故だったのでしょうか。

ケースが変わって現在、私はそのとき感じた親の手の温もりを、神様に重ね合わせることにしました。あの時のことを久しぶりに思い出すと、普段そっけなく応じてしまう親との電話でも、永遠の子供である様な素直さが心の中にあるのを見るのです。


あああこんなに長文を書くつもりじゃなかったのに。もしできる事なら、もっともっと短い文章で書き表せるようにならなければ。【Just】を論じる資格があるのか、はたまた疑問であるのだが、どうかこの疑問に祝福あれ。

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