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雪下の田園

田んぼのど真ん中にあるような土地で少年時代を過ごしました。頭のいい奴の発芽は場所を選ばぬようで、そんなお世辞にも都会と言えぬような、私のふるさとの属するある学級にも、なかなかのキレモノはいた。

で、そいつが教えてくれたことには、「田んぼや花壇といった、農業や園芸の産物は、人間の手が加えられている以上、自然とは呼べぬ。それは人の手が管理しているのだから、まごうことなき人工物なのだ。」というのです。随分と生意気な物言い(に編集したのは私)だが、しかし、その考え方はずっと大人になるまで、私の中にあったようです。

ある冬の日、祖父の葬儀に立ち会う為、久方ぶりに関東のC県から故郷のA県某市に帰った。私は父の運転する車で、駅から家へ帰るまで、雪に覆われた田んぼを目を細めながら眺めた。端々に土のこびりついた黒い雪がある。その様子を、60キロ制限道路にも関わらず90キロ以上の速度で乾いたコンクリートを滑走する箱の中にて、どう思っただろうか。

「何もないなあ」、ただその感想が出るばかりであった。田畑がそこに存在しているのはよく分かるのである。視界にこれでもかと広がる空間、それが雪の厚く積もる田である。それ以上でも以下でもなく、これが田園なのだ。それは分かるのだ。

しかし、何もない。これが秋の景観であったならば、金色の風に揺れる穂が我々に飽食を告げるでしょう。或いは積み上げられた稲わらが、夏の太く凛々しかったであろうその束たちの、廃れた残骸とも言える姿が、盛者必衰の世間を私達に告げるかもしれません。しかし、なぜかそこに、田はなかったのです。
雪で覆われて隠れているから、見えないから、田畑がないという簡単なものでもないのでしょう。これは田んぼの存在感というものが、目に見えるとか、可視化された姿とかいうものだけに依存しているものではないからです。
では田が休んでいて、満足な働きをしていないからでしょうか?いいえ、そうでもないでしょう。たしかに、先程の例を挙げれば、秋の田畑の存在感は冬のそれとはまた数段と違ってくるでしょう。しかしでは、春の田はどうだろうか。日に日に成長し続ける稲、麦、また野菜などが、まだ食べごろと言えない春の田畑はどうだろうか、そう考えたときに、それですべての事柄を言い表せているとは私には考えられません。無論、実用性そのものが、全くもって私達に働きかけの機能を持たないとは言えないでしょう。植物の発芽から成長に至るまでの神秘性は、否応なしに私達の心を動かすことも多いからです。ただ、季節的な実用性は、(この言葉にはまだ不足があり、乱暴な表現であることを認めますが、)あくまで働きかけを段階的に整えて強弱を決定するにすぎず、存在そのものをイチゼロで表すものではないのではないか。

私が言いたいことはこうです。
私たち人間は、「平面を有存在として認識できない」という特性でも、備えているのかもしれません。しかし、私達が書物を読むときに、時に笑い、時に涙し、また時に耐えられないほどまぶたが重く感じられることがあることを、どうか思い出していただきたい。書物とは平面であり、ページとインクの凹凸を視認して感動しているのではなく、文章の背後に隠された思いが私達を銀河の彼方へと導くから、私達個々は違えど、同じ美しさの涙を流すのではありませんか。イデアの世界とはよく言ったものです。その世界へと読者を没入させ、或いは飛躍させることができる表現技術は、物書きにとって喉から手が出るほど欲しい、というのは皆様にもお分かりいただけるでしょう。

冗長な文章、緻密な表現、先導的な描写、そのひとつひとつは、作品を飾り立て、起伏を形成し、価値を高めるための補助手段です。そこに囚われるのではなく、それを操ることを心がけたいものです。そして、真の意味で立体的な、もっと欲を言えば、デカルトにおける聖書のような、光を発する作品を描けるようになる事ができたのなら、私はそれを願ってやみません。



存在しない場所:ユートピアに連ねて

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