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今年の3月くらいに書いていたらしい愚痴

ある児童文学の学者はいいました。「児童文学とエッセイは違うぞ」と。僕はこの手の「〇〇と××はちがう」なる学者先生の主張が大嫌いです。
なぜならばその論調の背後にある、差別的な規格化の様相が、僕の目には醜悪に映るからです。内実を分析すれば、大抵は以下の文脈で語られ、また以下の流れでこの話は推移します。
「異物が混入されることで、児童文学のかよわく崩れやすい枠組みはいとも簡単に削除されうる」…それは、弱く繊細な児童文学像のあらわれです。
確かに、我々が文学に取り組むにあたって日々向き合い続けることは重要であります。そして前提として、児童文学は幼き友達の手に取られ、その人格形成の端緒に少なからぬ影響を与えうることもあろうから、我々が「ただの物語が進行するテキスト」とか、「ただの細緻な風景描写」とかに終始するべきではなく、心理的な描写を時には文学的に、時にはウィットに富んで、表現性を限界までつきつめる工夫はするべきだし、その形質を徒らに改変するべきでないというのはよくわかるのである。
されど、メッセージ性や何らかの意図を強調しすぎると、その野心が物語の持つ「芸術的側面」を失いかねない。たとえば、ビゴーの鹿鳴館を筆頭とした、明治日本の西洋文明包受への揶揄、鏡から猿が覗くあの挿絵は、芸術と言えるだろうか。世界に於いて「風刺画」のほとんどに芸術的価値がないことなどよく分かるではないか。
よもや必ずしも平和や進歩性を包含する必要などないし、またメッセージが表立って立脚する必要もないことはここに書き記されるべきであるように思う。
私が書き連ねていることは反ヘーゲル的だよ。実にね。
されど自らが所有し、また今後連続して紡がれ続けるであろう「創作意欲」を収縮させるような挙動は、評論としては相応しくない。文学の礎が我らの社会の中にその確たる根を下ろすとき、その下地が作家や文学者への尊敬を産むのだから、というのが理由である。

このように御大層なことを言いながら、「〇〇と××は違う」などとのたまうのは私である。文学ではないが、別の分野でかくの如く口から汚泥を吐き散らし、またそれについて理解のない人々を、何度退けてしまったことだろう。
どおりで、私はもう文字による芸術的描写をすることができなくなってしまった。登場人物の心理・感情を読者に追跡させることの難しさに、私はついていくことができなくなってしまっているのかもしれない。
醜いもので、これだから年をとりたくはなかったと後悔するも、これ以上汚してはならぬという自我でやっとのこと人間を続けることができる有様である。

しかし、私は厨二病患者。アテネが舞い、ヘルメスが竪琴をかき鳴らすように、創作と言う創作を徹底して貪り続けることこそ我が定めと心得たり。


やれるとこまでやるしかあるめえよ。

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