昨日(3月17日)に新作の「面倒くさい女(ひと)」を投稿したのだけれど、この物語詩をもう一度書けるかといえば、それは無理なんだ、ホントの話。
自分で書いたんだからたかが昨日の事だし、思い出して書けばできるでしょと言われても”思い出せない”のだ。あらすじくらいは覚えているけど、細部に至っては漠然とし、もう忘れてしまったところも多い。(自分でもびっくりするくらい)
歳だからというわけではなく(それもあるけど…)これを書いたその気持ちはもう僕の中にはないということなんだよ。その時の自分はその時だけのもの、だから覚えているからできるという筋合いのモノじゃないんだ。
今になってみると、どうやって自分がこれを書いたのかも定かじゃないし、結果としてはこうなった。それくらい自作でありながら遠いものになって僕の手から旅立ってしまった。これは詩を書くようになってから変わらない、僕にとっての不文律なんだ。
もはや再現も再生も叶わないし、たとえ同じような話は書けてもあの時の自分には帰れないから、そんなことにそもそも意味はないし、たぶん出来ない。それは劣化した低劣なデッドコピーでしかない。
レシピのようにそれを読めば誰でもできるというものとは根本的に違う。出来上がった作品は、書き上げたら最後、もう自分のものですらないのさ。
その文章は作者に依らず”勝手に生きて”いる、そういう存在になってしまった”それ”は言わば血を分けた兄弟というより、遠い親戚の”いとこ”みたいなもの。いつかまた、元気でねと別れを告げるしかない。
モノを作るとは慈しみ育み育て、やがて自立したそれを見送る親のようなものになって、それを覚悟しないと出来はしない。そういうことなんだ。
模型作りなんかもそうだろう、完全な複製なんか所詮無理だし、また作りたくもない。そんな同じ問題を二度解くなんて時間の無駄。いわゆる職人はそれを「仕事」だからできるのだ。プロの作家は多かれ少なかれそうした部分を抱えている。
僕はそんな腕のいい職人にはなれないし、なり切れもしないだろう。今までもみんなそうだったし、これからもずっとそう。これはわがままではなく単に資質の問題だ。プロの売れっ子文筆家はそれすらも資質の一部になっている人の事。
僕もなれるだろうか、いつかは?そんなことをたまに言ってみる。
いつまで書けるのといえば、いつまで生きるのというのと僕にとっては同義語だ。もちろん自分で終わらせることもできるけど、それがいつかはハッキリとはわからないし、あえて分かりたくもないというのが正直のところさ。
ヒトの人生はみんなそうなのだ。自分からやめたとは言いたくはない。