ミステリー小説には日常の謎というジャンルがあります。平たく言うと「人の死なないミステリ」ですね。氷菓とかです。詳しくはwiki参照で。
で、私はわりと殺人事件の起こるステレオタイプなミステリより、この日常の謎の方が好きなたちでして、というのも日常の謎は何が事件になるか分からないという面白さがあるのです。
殺人事件は殺人が事件です。当たり前ですが、それ以上でも以下でもない。ある種の予定調和です。もちろん誰がどんな方法で死んで物語が始まるのかというのが作者の腕の見せ所であり、同時に人殺しは全世界の人間が等しく興味を持つ普遍的なコンテクストです。しかし読者は殺人が起こること前提で物語を読み進める宿命に縛られており、そこに『これから何が起こるのだろう』というワクワク感はないと言っても過言ではありません。搦め手として『萌えキャラが犯人』という手法を先人は取り入れましたが、現在それすら常識になってしまいました。
「んなもん当たり前。おれたちは人殺しと推理が見てえんだよ」
と、硬派なミステリファンの方々は仰ることでしょう。(私は今見えない敵と戦っている)
それはミステリを楽しむという意味で一つの解答なのかもしれません。ですが、物語を楽しむ上で大切な、冒険心のような挑戦心のような、新しいものに触れたいと思う原始的欲求を忘れてやいないでしょうか。私にはそれが嘆かわしいことに思えてならないのです。
一方でこの日常の謎。日常というぐらいですから、人のとる行動にいちいちちゃちゃをいれて、混ぜ返して、はっきり言ってデバガメのような連中です。人間とはえてして、理解不能な行動をとるゆえに、他人から見れば奇行にしか見えないこともままある。しかし実際それを逐一紐解いていくと、人間模様が見えてきて実に興味深い。何より「こんなしょーもないことが事件になるんだ!」という驚きは新鮮で、人殺し一辺倒な古典的ミステリでは絶対に表現することのできない圧倒的強みです。
殺人と推理は、えてして物語と相性が悪いといいます。一方で日常の謎は物語を徹底的に突き詰めなければ事件として成立しない可能性すらある。それに「こんなしょーもないこと」なので、読者に興味を持ってもらえないかもしれない。
刺激の強いものを求めるのは人間の性であり、かつて私も日常の謎をぬるいミステリと思っていました。しかしスルメ小説とでも言えば良いのか、噛めば噛むほど味の出るこの奥深さは、酒の肴にピッタリだと思う今日この頃です。