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価値について

先日イーストウッドのグラントリノという映画を見ました。ネタバレ少なめでいうと偏屈なじじい(イーストウッド)とご近所さんが仲良くなるって内容の作品です。そしてこの映画異常にネットの評価が高く、サイトによってはイーストウッド最高傑作とも言われております。だったら一度見てやろうと思った次第です。というのもわたくし、イーストウッドの映画と、なんと言えば良いか、あまり相性が良くないです。どれを見てもデカい男が出る冗長なヒーロームービーという印象で、正直最後まで見ていられない。ほぼ山田康雄の声を聞くためにに見ているようなものです。しかし同時に考えたのが「そういえば昔のイーストウッドばかり見て最近のやつを見たことがない。もしかしてこの人の真価は年食ってからなのではないか」と。

結果をいうとそれは間違いではありませんでした。少なくともグラントリノは画一的なヒーロー映画ではなく、ある意味ヒーローらしからぬ最後でした。きになる人はプライムへGO。

しかしそれよりも考えさせられたのが映画の価値、ひいては物事の価値についてです。この映画、画一的なヒーロー映画ではありませんが、斬新でエンターテイメントに富み涙がほろりとこぼれ落ちるか、と言われればそんなことはないのです。正直「NARUTOで同じことしてたなー」と見ながら考えていました。一方で評判は良い。この辺りに矛盾というか温度差を感じた私はちょいと調べて一つの答えに辿り着きます。要するにこの映画「かつて人々のヒーローとして悪を断罪してきた男が、年を食ってこういう答えを出した」というのが一番の評価のポイントなのです。彼らは「イーストウッドという歴史」そのものに価値を見出しているのです。価値とは歴史に付随するものという当たり前のことを、私はいつの間にか忘れていました。

では映画単体に価値はないのか、と言われれば難しい所です。「価値になり辛い」という答えが一番近いのではないでしょうか。そもそも論、映画とはエンターテイメントであり、エンターテイメントとは一過性の娯楽です。価値=歴史と考えるなら、娯楽は最も遠い場所に位置づけられてしまいます。言い換えるなら映画そのものに価値を見出す行為自体が間違っているのです。
鑑定団とか見ても笑える壺とか出てこないし。

価値を見出すなら必ず歴史を紐づけしないと頭がこんがらがってしまいます。価値は歴史でありエンターテイメントは金。万が一面白さに価値を見出してしまうと、その辺りのジレンマに首を絞められるような気がします。

しかし面白さが続けばそれが歴史になるのは純然たる事実です。

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