少年誌などでよく使われる手法で、主人公の不幸な生い立ちを描くために近親者を殺すというやり方があります。わたしは勝手に「親殺し」と呼んでいるのですが、これは不幸な生い立ちを描くのと同時に、少年誌の性質上邪魔でしかない大人を排除出来るという利点もあり、太古より数々の親が非業の死を遂げてきました。しかしながら近年この手法はやり尽くされ飽きられてしまった、と言ってしまうのは簡単ですが、問題はそれより根が深く、そもそも論、反抗期真っ盛りの少年少女が「親が死ぬ」というバックボーンにどれくらい共感出来るのか。リアルにイメージ出来るのか。
代りに現れたのがイジメです。イジメは共感という意味では最も有効な手法である『恥』を含んでおり、経験の有無に関わらず想像ないし連想が容易です。基本的に親殺しに『恥』が入り込む余地はありません。しかしこれにも落とし穴はあって、共感とは即ちストレスです。ストレス耐性のない(といわれている)現代人には、共感されすぎて目も当てられないという事態が往々に起こりうるのです。対処方法としてはストレス軽減のために笑いを入れたりお色気を入れたり理解者を入れたり…「軽微な救い」を意図的に用意することで、主人公の一発逆転までどうにか読者を耐えさせるのです。しかし冒頭のイジメでもう読むのをやめるという読者は決して少なくなく、リスキーな方法であることは覆しようがありません。
親殺しとイジメは両極です。読者にいかにして近づくか、いかにして遠ざかるか、その真ん中が正解なのでしょう。不幸のパターンは大体決まっていて、キャラクターを不幸にするというのは本来それほど難しいことではないのですが、この距離感を見誤ると作品の価値を著しく損なう可能性があります。あとは作り手のメンタルなんかも結構問題で、思い入れのあるキャラクターを辱める行為は何だか魂を削られているような錯覚に陥ります。もっとも素人はキャラクターを格好良く書けても格好悪く書けないと言われる昨今、一度やりすぎるぐらい不幸にしてみるのが近道なのかもしれません。
こういうことを考えていくと「転生もの」は、受けるべくして受けたのだなあと感心してしまう今日この頃。