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(過去ログ) 感想をくれ~~~~~~~ぇ。

☆なんざいらん。☆? なにそれ? 美味しいの?


まあ☆が多いと読む人が増えるかもと、星爆の☆も放置しているヘタレだけれどもw

それよりは、俺ならこう書く! ここおかしいやんけ! ここをこう書けばもっとええねん! 抱いて! なんでもええから上から目線で指摘してきてくんなまし。

お褒めの言葉はモチベーションになるけれども、意見はあるのに遠慮されるのはいやだ。ガツンときて欲しい。

7件のコメント

  •  こんにちは、先日twitterにてコメントをいただきました 大塚めいと です。この度、当サイトのアカウントを作成いたしましたので、ここにコメントを書かせていただきます。

     私自身それほど感想や評価をいただいていない人間で釈迦に説法かもしれませんが、正直に感じた「自分ならこうする」という気持ちを以下に書かせていただきます。




     まず、プリンぽんさんの作品(主にショート作品)の多くを読ませていただき、とても文章が綺麗だという第一印象を受けました。

     メリハリのある劇画的な文体はシリアスな作品には非常に映え、読み手に非情に緊張感を持たせてくれていると思います。




     しかし、作品の中では「それだけで終わってしまっている」ように感じる物もありました。




     確かにプリンぽんさんの作品はどれも読みやすくて綺麗なのですが、例えるなら「ドライブ中に偶然目にした美しい風景」のようなモノで、それ自体には感動を覚えるのですがそれを「誰かに伝えたい」「もう一度見て見たい」という気にさせるには弱いように感じたかもしれません。もう一つ+αが欲しいと思った物もありました。

     例えば「マザーツリー」では、2人の皮肉な運命をコンパクトに描写し、さらには置かれた境遇を「ブナ」に例えた点は秀逸だと感じましたが、「なぜ殺し屋はターゲットの正体に気が付いたのか? 」という描写が薄く、結末に少し納得がいかない印象を受けました。

     あくまでも「自分なら」という案なのですが、兄弟に共通する身体的特徴(顔が変わっても残り続ける物、例えば目の色)に気が付いたりだとか、共通に持ち合わせている形見といった小道具を使ったりだとか、ちょっとした仕掛けを仕込んだ方が読み手にもより印象深いものにさせたのではないか? と思います。
     無論、そのような描写を含むと文章量が多くなってコンパクトに纏めることが難しくなる可能性もあり、さらには所謂「突っ込みどころ」という物が生まれる恐れもありますが、あえてこうした「とっかかり」を作ることもアリなんじゃないか? と個人的には感じます。




     次に、いい意味での「ベタ」な展開もあった方がいいのでは? という点もあります。





     「記憶喪失Ⅱヒキコモリのサイン」を例に上げます。新型インフルエンザによって生じた皮肉なすれ違いの後、教授と助手やり取りにてコミカルなオチを付けていて、それ自体は面白かったのですが、少し勿体ないなと感じたのも事実です。

     これまた「自分では」という提案ですが、新型インフルエンザによって失われた記憶が2年後に蘇るという種明かしをした後、大学生になった主人公の「僕」が突然どこかに走り出し、あの時両想いになったハズの彼女の元へと向かっていくような「ベタなドラマティック描写」で終わった方が良かった。やはり若者の青春をテーマにした時には、そういった終わらせ方の方が食い合わせがいいと思います。




     感想は今のところ以上です。個人的な主観で論じたモノになってしまったかもしれませんが、何らかの参考になっていただければ幸いです。

     今回、プリンぽんさんの作品にコメントをするにあたり、自分自身の作品も同時に見直し「どうやったらもっと感想を貰えるようになるのか? 」という問いに対して自分なりに分析して答えを出させていただきました。今回このような機会を与えてくれたプリンぽんには本当に感謝しています。




     これからもどうぞよろしくお願いいたします。







  • コメントありがとうございます。即答するまえに前提として色々お話したほうがお互いに身になると思いますので、少し前置きをw

    まず私は出発点がネット大喜利でして、小説に関しては紙媒体しか読んだことがほぼありませんでした。ネット大喜利はいわずとしれた発想勝負でその発想を生かすために表現力が問われる形です。そこで凄い人にはかなわなくて自分の表現の勝負どころとして小説に流れた経緯があります。

    なのでまず、文体に関しては私自身の文体と言えるものがありません。こ器用に使い分けは出来るのですが、本体がないw 他のかたにも褒めていただくことがありますが、それはセンテンスが短く、各種作家さんの模倣で繰り返した文章だからかもしれません。選択したものがテーマや内容にはまれば生きるといったほうがよくて、誤解するといけない部分だと思います。
    およそ小説としての文体か? ネット小説の範疇にあるセンテンスの流れでもありません(一字一句読ますような書き方で、読点も多めです)
    洗練された作家の文章の模倣のつぎはぎと言えばわかりやすいかな?

    なので読むには重く、通常の長編では書き方をもっと違った書き方にしています。
    今回、カクヨムに参加したのは、そこからさらに離れてw 長編で実験的な文体と視点、主観、などがバラバラのものを書いてみて、そこに面白さを感じてもらえるかな? っと言うのがテーマにありました。

    結果的には、ほぼ長編の一話でみなさん帰っていきますw 文章力をお褒め頂きましたが、それが長編になるとこのような状態になります。
    ネットで小説を読む層の読書耐性(これは難解な内容を読み解く力とか能力の問題ではなく、例えばネット小説しか読まない層はつまらない作品に当たる確立が非常に高く、非常にジャッジが早い。単純に横書きなので読みにくいから読みにくい文体は敬遠する。前のめりで取り組んで読書はしていない状態等々です)を完全に見誤っていましたw

  • 前提長すぎwww

    でもある程度、誤解されて受け止められるより詳しく書くほうが、お互いの発展のためにはいいかなっと長文でもいいから考えたことを書くようにしています。鬱陶しくて嫌われるけどwww

    これは多分に言い訳に聞こえるかもしれませんが、本来は序盤から読みやすく書くのが本道なのだが作品全体の構成を考えて書いていますのでそこは変えたくない。群像として主人公だけの目線で展開するのではなく、本来の群像としての意味合いを正当に世襲して、視点、主観、バラバラの実験的構成も変えたくない。

    そこで掌編を提示して、ある程度の力があることを知ってくれれば、読んでくれるのじゃないか? っと姑息な手段で昔にミクシーで書いていたものを提示したわけです。

    ただ掌編自体はそのときそのときで全力で書いていますので、そこは言い訳しませんw
    お題を頂いて書いていますが、そこにはお題を頂くそのものの難しさはあるものの、逆に他人の脳みそから生まれた発想で自分が触発され、本来の自分の力以上に書けたものも多くあります。

  • 頂いたコメントに対する本文(いまごろかいww)

    >例えるなら「ドライブ中に偶然目にした美しい風景」

    これはそのものずばり、私の掌編の手法の問題だと思います。私はこれを切り取りと勝手に命名していますw
    掌編として起承転結を綺麗に書くのではなく、ある一場面を切り取る。それで成立させています。つまり、他の部分は読者にまる投げしているのですね。難しい部分にあえて手をつけず、一場面強調で(そこにはテクニック的なものは必要ですが、そこは大喜利出身者なのでw)
    書いています。
    ご指摘はごもっともだと思います。作品の内容が親子の情など普遍的で誰もが持っているものだと、成立しますがそこで隠せない場合はこの手法の底の浅さが露呈する部分であると思います。ただ、手法としては優れているので結果的に作品の質に左右される部分であるとも思います。



  • 作品個別の内容に関しましては、

    >例えば「マザーツリー」では、2人の皮肉な運命をコンパクトに描写し、さらには置かれた境遇を「ブナ」に例えた点は秀逸だと感じましたが、「なぜ殺し屋はターゲットの正体に気が付いたのか? 」という描写が薄く、結末に少し納得がいかない印象を受けました。

    この部分は全くその通りwww
    もう少しきちんと書けばよかったと反省している作品です。密室状態の観覧車から狙撃できるのか? っと批評もされました。不完全ですね。
    しかし、修正部分に関しての僕の意見は少し違います。

    判別できる材料を提示するのではなく、見た目は全く違うのにそれがわかってしまう(双子である部分、シックスセンス的なものでもいい)という設定を読者に出来ていたら作品としてはワンランク上がるだろうなってのが現状の考えです。

    >「記憶喪失Ⅱヒキコモリのサイン」を例に上げます。新型インフルエンザによって生じた皮肉なすれ違いの後、教授と助手やり取りにてコミカルなオチを付けていて、それ自体は面白かったのですが、少し勿体ないなと感じたのも事実です。

    これも多くの人に指摘されましたw
    まずもってロマンチックに終わらせて欲しかったってのが一番にきましたねwwww
    どうだろう? 大喜利出身者の悪い癖が如実に出た結果だと思いますw
    真剣に作品を成立させるのであれば、あーいった逃げ的なテクニックは使うべきではなかったですね。
    作品としては毛色のちがうものにはなったでしょうが、ロマンチックで最後まで(少し長文になってもよいから)いけば、作品の質が上がったと思います。

    以上、長々とすみません。
    僕自身は嫌われると思っても、そのときそのとき頭に浮んだことを率直に書いていこうと最近思っています。
    その人に話しているだけではなく、自分の考えを整理する目的もあるんです。それも踏まえてご容赦をm--m

    ここはいつでも自由に書き込んでください。
    別に私の作品に関連する話以外、小説の話以外でもなんでもOKです。

    あw それと私はときどき酔っ払ってわけのわからないことを言いまくるときがありますが、悪意はなく(あーまたこいつ酒飲んでるな~っと)生暖かい目で見守ってくださいw

    こちらこよろしく~m--m
  •  プリンぽんさん、こんにちは。

     私のコメントに対し、ここまでのボリュームで返答が来るとは思いませんでした、ありがとうございます。

     小説を書くまでの出発点や、今に至る経緯。さらにはその姿勢に関する点にまで語っていただき、とても刺激になりました。

     私の指摘に対しても誠実に答えていただき「なるほど、そういうことか」と逆にこっちが唸るところもあり、とても新鮮な気持ちです。

     実は私はこうやって他の書き手の方とガッツリ意見を交わし合う機会が今まで無かったので、プリンぽんさんのコメントはちょっとした異文化交流でした。

     自分は「映画のような話を作りたい」というモチベーションからそれを表現する為の「一手段」として小説を書くという道を選んだこともあり、ロジカルな点を重視するあまり「起承転結がしっかりと決まっていなければダメだ!」という考え方に縛られていました。

     しかしプリンぽんさんの「切り取り」の解説を読ませていただくにあたり「一場面強調」という新たな発想に触れらた気がします。これは自分にとって本当に目から鱗だった。

     自分は長編作品や映画脚本に関する技術しか頭に入れていなかったので、何といいますか……ちょっと例えが違うかもしれませんが小説、及び文字作品を「動画的」にしか見ていなかったのかもしれません、ショートショートも掌編も短編も長編も全く同じ姿勢で作っていました。時間の経過と共に展開される情報の移り変わりが全てなのだと。場合によってはそれが全てではないと気が付きませんでしたね。

     解釈が間違っているかもしれませんが、プリンぽんさんによる切り取りの一場面強調は「静画的」なのだと私は認識しました。映画のスクリーンではなく美術館に飾られた絵画とでもいいますでしょうか? 鑑賞する読み手に多くの解釈を委ねるその手法を念頭にして改めてプリンぽんさんの作品を読み返しますと、それをよく考えて作れらていることが分かりました。




     原点や姿勢が違えばここまで違う発想が出来るのか。というカンジです。、




     何というか途中で自分語りまて入れてしまって、どういう趣旨がキッカケのコメントなのかちょっと忘れてしまうほどに書き込んでしまいました、すみません(笑)




     今後もプリンぽんさんを読ませていただき、コメントさせていただきたいと思います。改めて今後ともよろしくお願い致します。m(__)m
  • いえいえw 
    文章を褒められることもありますが、ご説明したとおりで誤解があると危険かとw 短編にはまっていても小説としての書き方としては ? な部分が多いので私の場合。

    やっぱり基本は起承転結でしょうし、シーンを動画で見せることが理想だと思いますので、そこは全く間違えていませんが、考え方は色々ですよね。

    文芸論ばかりになってもそれはそれで意味がなくなるとは思いますが、たまにこんな形で書き手と喋るのもいいと思います。人の脳みそはやはり貴重ですw
    あんまり長文にならないように気をつけますので、気楽になんでも書き込んでくださいm--m
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