魯班(Luban) bc507~
公輸盤とされる。
魯班・公輸般 巧聖先師
春秋戦国時代の工匠
『墨子』の『公輸篇』でキャスター付きの攻城用梯子車、雲梯がどうたらで、適当なものでボードゲーム作った墨子さんに攻城シミュレーションで負けた話だけかと思ったら、『魯問篇』でなんか言はれてた。
『淮南子』とかでどうたら言はれる。
建築、彫刻、船、車、農具、鋸、鉋、墨壺、曲尺(魯尺)を手掛け(真野隆也『道教(タオ)の神々』292頁)、瓦職人、大工、左官のギルドで崇拝された。
唐代に入ってから、仏教寺院で結構よいやつは、魯班(鉄板で仏教伝来以前に死んどる筈)が苦心のものと言ふことになったらしい。あー。
敦煌出身らしい(『中国神話伝説事典』p724)。子供時代は全く勉強に興味を持たなかった。十五歳になった時、子夏(孔子の弟子!!)について儒学を修め、頭角を現したがナニがあれなので泰山の南にある小和山で過ごす。そこで鮑老董といふぢぢいに師事し、各種の技術を学ぶ(真野隆也『道教(タオ)の神々』292頁)
『墨子』「魯問篇四十九」の、「公輸盤が木竹で鵲を作った」話について、『韓非子』「外儲説左第三十二」にある、「墨子が木で鳶を作った」話が、a何年かかけて飛行機械(凧とされる)作るbまぁ(三日ほど)飛ぶc誰ぞがそれを見て「車職人が作るこん棒のがコレよりまし」といふ、と大変そっくりだと言はれる。お二人の作ったナニは、動力がないものならしいのだが、『酉陽雑俎』では、木鳶を作り、3つの楔を打ち込んで飛ばしてた、公輸般のパパが木鳶へ10の楔を打ち込み飛んだところ、呉まで行ってしまって、土人に殺された、となる。そんで呉国を木像で旱にしたとか、魯班は涼州だか魯の辺から宋へ木鳶(プライヴェートジェットみたいな)で行ったとか言はれる。
また『論衡』儒増篇に出てくる、魯班が母親のために「木の馬車」を作ったが、操縦する方法を知らなかったママンが、乗ったところ何処かへ行ってそれっきり てふ話は、どっかから引用されてるらしい。皮肉にもツッコミ文献の方が残ってゐる。
清代の文献で、「鶏鳴山の麓の渾河にある石の柱は、その昔、魯班が橋を架けようとして、姉の意図により途中(鶏が鳴くまでに作るとやってゐたので、コケコケを早めに鳴かせる)で終った残骸」伝承があるさうな。折口信夫大先生が収録した壱岐の話で、カイマギウッチョケは、アレはたつたの番庄と、アマンシャグメによる橋の建設合戦で、野郎の方が鶏使ふ。支那は神様がえらいことゐるので、無能な神はアレされるさうで、ソレをやる際「公輸子がなんぞの像を作って」といふ話がある。