それでは星明かりすら届かない海の真ん中で消える。
もう片方は。そう、内在宇宙は私の中にしか無い。
久しぶりにあのマンションの屋上へ戻った。冬の日、すっかり日の落ちた夜に。
後書きの方に、忘れていた一節が残っているのに気付いた。
* * * *
「一ミリも浮上できない透明な翼を持っていて、何の利点があるのでしょう?」
「それが見えるならば、あなたは私の声が聴こえる人でしょうね。それならば敢えてその価値を語ることはしませんし、その必要はないでしょうに。でも実際には、」
そう、実際には何とも肩身が狭いのかもしれない。そもそもこんな聞かれ方はしない。もっと、淡白なそれが飛んできそうだ。
* * * *
困ったことに一部の代名詞が何を指していたのか曖昧になっている。でも、おかげで思い出せた。“透明な翼”なるものがあったことを、それが何を指していたのかを。
まだ詩の世界の入り口にいた頃だった。その時私はあなたの名前を借りると言って、明確に“あなたではない誰か”として書こうとしていた。最初の最初、つまりは低い世界で何も知らずただ夢中で書いていた頃の、誰でもない私の後に確立した書き手。ペンネーム『M』とでもしておこうか、そのMの振る舞い、佇まい、つまりは言語感覚。何故「翼」や「羽」という言葉を好んで使ったのか。あなたの名前を借りることができたのか。それはそうか、二人称としてあなたを生み出す瞬間は少なくともあなたではない誰かが必要だった。そしてMは、いま潜行しようとしている場所とは違うエリアにいたのではないかと思う。
Mは今、とても薄くなってしまっている。
今、私があなたから離れている間、私はMではなくなっている。そもそも忘れかけていたのだから。
ねえM、私は今あなたにもう一度なるべきかな。一部でも何かを借りるべきかな。
→思い出したことに一旦留めるべき。貸せるものがあるとすれば、1ミリも浮上できない透明な翼で体重をほんの少し軽くするくらい?
渓谷詩篇、未完の水没都市、“未言語化の”景色の断片。
全て通過点としてよいらしい。あの目から見ても、内在宇宙はやはりゴールであるから。
『仮想箱』だけを基準になくてもいいのではと、熱量を込めて完結させたという意味ではあれが一作目だからと、免罪符一枚になるかな。蒸気幻想譚を書くことには意味がある。それから、イデアの特に序盤のあたり、読み返した時にあった奇妙な手応えの理由、きっと一つじゃないよ。
それなら、目の前に置くべき鍵のかかった箱としては、イデア一層を出ること、蒸気幻想譚を取り戻すところ。この二つは最低限の宿題として課す。これを開けるまでは誰にも何も求めない。
--------------------
ここで、1ヵ月が経った。まだ宿題は終わっていない。その上でもう一つ課そう、12の物語を終えること。
一つ思い出して、一つ思い至ったことがある。
小さな頃、タンポポの綿毛を見つけて、引っこ抜いて息を吹きかけたり、生えているところをそのまま払ったりして、綿毛を飛ばしていた。少し大きくなると、それが次のタンポポを作るための仕組みだと知り、より遠くに綿毛を飛ばした方が良いのだと思うようになる。もう少し大人に近付いた私は、風が強く吹いた時に綿毛が親から離れるという構造に感心する。無駄がなく、意味があって、そう、ヒトの手など要らないのだ。そこには自然の中で積み重ねられた仕組みがあって、思えば風も自然の一部だ、その糸のように細い交錯の中で、まるで意思があるかのように種の拡大を試みる。では、その繊細な営みを簡単に摘み取るその手は、ヒトの手は何者か。そうして自然なるもののスケールの一端を知り、世界の階層のようなものに目を向けるようになった。
地下鉄の駅の階段を降りたところ、雨が伝うであろうタイルの継ぎ目の、建材の接着剤のような泥のような僅かな区画に、小さな小さな植物が生えているのを見つけた。思わず携帯電話のカメラを向けた。風に舞った極小の種子がそこを選んだのか、人間の生み出した構造が種子を錯覚させたのか。冷たい人工の光、汚れた僅かな水、一握りすら与えられぬ土壌とも呼べない場所に、きっと、それでも根を張って。いずれにしても、間違いなく、その小さな植物に“未来は無かった”。摘み取ってしっかりとした土に植え替えれば生き延びたか。そもそもそんなもの気に留める価値など、意味などなかったのか。
と、夏を目の前にして、もうタンポポの季節は過ぎてしまった。いつのまに。かつてないウイルスの影響が変えたもの、奪ったものは多い。その甚大さがまるで見えていない。ただね、本物の日を浴びて風を待つ綿毛を前にして、私と同じことを考えたのがあなただった。
一つ思い出したのは、あなたが私の代弁者であること。今それを聞けば、「私以外にも」と言うかもね。そして、私が何も言いたいことを持ち合わせなくなってしまったら、その時はあなたの口数も少なくなる。
深層にあるのは、それでは、声なのだろうか。見えもしない、知っているものでしか描けない粗末な未来を組み上げて、
「その先は私が歩く」
と聞こえるまで、その場所に立っていられる? その深度に潜っていられる? もっと奥まで潜っていける? まだまだ脆い装甲で、燃費の悪いエンジンで、容量の小さなタンクで。
もう少し、考えなさい。