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悪魔の本屋



 通りを歩いていると、本屋があった。見るからに古めかしい。
 こんなところに本屋なんてあっただろうか? 今まで、まったく気づかなかった。

 私は通りすぎようとした。が、遠くから近づいてくる警官を目にとめた。あわてて、本屋のなかへ入る。どうにかして、やりすごさなければ。

 もっと奥へ行こう。あの警官が行きすぎてから駅まで走っていくのだ。いや、駅はマズイかもしれない。もしかしたら、もうすでに特別配備がかかっている可能性がある。彼女のアパートを出るとき、不審そうにこっちを見ていた男がいた……。

 しかたないので、本棚のあいだを入っていく。
 それにしても薄暗い。本棚にならぶ背表紙は、どれも古書のようだ。一見して高そうだが、題名がよく見えない。外国語なのか、つづりさえ読めない。少なくとも英語ではなかった。ラテン語とか、ギリシャ語とか、そういうのだろうか?

 どっちみち、私は警官が行ってしまうのを待つための時間つぶしのつもりだった。本を読む気も買う気もない。へたにさわると、高そうなだけにめんどうなことになりかねない。てきとうに見ているふりだけしようと考える。

 そのとき、私の目にとびこんできた文字があった。なぜか、それだけ日本語だ。『ある殺人者の生涯』と読める。

 わたしはドキリとした。まさに、今の私じゃないか?
 長年つきあってきた彼女をこの手にかけてしまった。でも、悪いのは彼女だ。彼女が私を裏切るから。私は悪くない。

 ドキドキしながら、そのタイトルを見つめた。なぜかはわからないが、手にとってみたい欲求がしだいに高まり、どうにも抑えられない。吸いよせられるように、私は手を伸ばした。

「その本が気になりますか?」

 私はすくみあがり、声のぬしをふりかえった。黒いスーツを着た男が立っている。黒髪黒い瞳だが、西洋人の容貌だ。背も高い。本屋のあるじだろうか? なんとなく場違いに見える。

「その本はあなたにお勧めですよ」
「……」
「呼ばれた気がしたんでしょう? この本屋に置かれた本はね。すべて一冊ずつ、特定の個人に対応しているんですよ。つまり、それはあなたの本だ。あなたのために存在している」
「どういう意味ですか?」
「あなた、今、困ってますね? でも、その本を買えば助かりますよ」
「……」

 うさんくさい。しかし、たとえば、この本を買うことで、私の罪が完全に隠蔽《いんぺい》されれば……。

「いくらですか?」

 あわてて逃げてきたので、持ちあわせはそうない。しかし、財布はポケットに入れてあった。二万ていどなら入っていたはず。

 すがるような思いでたずねた。が、店主の答えはこうだ。

「一千万円です」
「いっ、一千万?」

 そんなお金はない。貯金でもそこまでは届かない。

「私にはムリです」
「そうですか? まあ、かまいませんがね」

 そう言うと、店主は立ち去った。

 そろそろ警官はいなくなっただろうか?
 早く逃げよう。

 しかし、どうにもあの本が気になった。頭の奥がチリチリ焼けるような痛みさえ感じる。
 そっとあたりをうかがうが、さっきの店主はもう見あたらない。客も私以外、一人もいなかった。

 あの本があれば、私を救ってくれるかもしれない……。

 私は素早く、その本に指をかけた。誰にも見つからないうちに、こっそり持っていこうとしたのだ。人を殺したあとなのに、今さら盗みの一つや二つ、なんだというのだろう?

 だが、その瞬間だ。
 私の体は急速に黒い霧に包まれ、本のなかに吸引されていく。そんなバカな。こんなこと、あるはずない。

 すると、どこからか、笑い声が聞こえた。あの店主の声だ。

「ここの本はね。生きた人間の人生が記されているのです。その本人の魂が語る言葉でね」

 ああ。私の体が消えていく。深い闇に堕ちていく。

 せめて、語ろう。
 私がなぜ、殺人者になったのか。
 私が彼女と初めて出会ったのは……。



 了


※こちらはKAC20231『本屋』用に書いた作品です。本編は削除したので、現在、限定ノートでしか読めません。

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