「AIのべりすと文学賞」という公募情報をみつけました。
AIと一緒に物語を創っていく文学賞です。
私はずいぶん前にmidiソフトで自動作曲をし、「初音ミク」というボーカロイドがでた頃に、私もボーカロイドと音楽ソフトで音楽づくりをしていました。音楽ソフトで自動作曲もしましたので、いずれ物書きもするソフト、AIがでてくるだろうと思っていました。
ボーカロイドで作成した動画をこのあとにアップします。作曲は私で、演奏は音楽ソフト、歌唱?はボーカロイドのグミです。「Tちゃんへ」弟夫婦に送る歌でした。ほかの私のボーカロイド作品ではガンガン演奏が入っていますが、これは超シンプルにして、ほぼアカペラです。
AIの将棋はすでにありますし、無人ホテルではロボットが受け付けをしているところがありますし、まわる寿司のお店にもロボットが受け付けをしていました。
私自身、そうしたAIは好きな世界なのですが、と同時に人間不在の社会になっていく寂しさも強く感じています。
昨年公開の「アーカイブ」というAIやロボットが登場するSF映画は、私の観てきた映画のなかでベスト10に入るとてもショックを受けた作品でした。
ほかのSF映画にもありましたが、愛する人、愛するペットがこの世を去ったとき、人情としてAI、そしてアンドロイドにして復活させたいという気持ちは痛いほどわかります。
問題は、ありとあらゆるデータを記憶させたら、愛する存在として甦るのかということです。癖も感情も寸分もかわらないアンドロイドが完成したとき、それは愛する人であり、愛するペットになりうるものなのでしょうか。
人もアナログなだけで、経験と知識を入れ込んだだけの存在といわれるかもしれません。
脳が壊れれば、記憶も失います。感情も表に出せなくなります。動くことすらできなくなります。人とAIの違いはなにか?
人間たらしめているのはなにか?
人間の存在とはなんなのか?
魂のありなしか?
魂さえもAI、アンドロイドに宿ったら?
私には答えがありません。いいのかよくないのかもわかりません。
ただいえることは、不完全な人間がつくってきた社会、物もまた不完全なものになるのです。
人間がつくったAIもまた人間の不完全さを抱合していることでしょう。人間を越えようとさらに機能をアップし、神になろうとしたとき、AIは人間同様の過ちを犯し、自らを滅ぼすことになることでしょう。風の時代になり、ますます人間不在の社会になっていくことはまちがいないことです。
あまりに人間くさい魚座の時代から、まさに両極端のAIの時代、水瓶座の時代になっていくなんて、なにか皮肉さを感じます。
贈り物のなかに、手書きの手紙が同封されていると、とてもうれしくなります。
贈り物そのものにはうれしいと思わないのに、手書きの手紙に感動する私はおかしいのでしょうか。
(了)