「ペンは剣よりも強し」という言葉がありますが、実際、言葉は剣になることもあります。
某女子プロレスの方がSNSで批判されて自死されたことは、たいへん痛ましいことでした。私の身内も自死していますので、言葉にならないニュースでした。悪気がなかった、人によっては正義感での書き込みだった場合もあるかもしれませんが、かけがえのない命が天に召されたことは事実です。
あの場合、テレビ局、制作会社の演出に問題があったのかもしれません。
言葉の魔力でいいますと、古来からある呪術も儀式と言葉を使います。
宗教もお経や真言、祝詞など、言霊としての力を発揮しています。
スピリチュアル的には、苦しいこと、悩んでいることを「話す」ことで「離す」につながるともいいます。反対に彼女ができた、彼氏が出来た、結婚が決まりましたなど、幸せの報告をSNSにあげると、トラブルが起きて、別離や婚約解消になることもあると聞きます。
幸せそうな内容に喜んでくれる人たちばかりではないということでしょう。
孤独で苦しんでいるとき、自分に余裕がないとき、人の幸せのアピールを手放しで喜べないときもあるものです。
ですから、私は幸せな出来事があっても決して、SNSにはあげません。
今年の七月に天に召された愛猫のミャーちゃんの画像もいちどもネットにあげていません。念の障りを恐れてのことです。それでも、ミャーは逝ってしまいました。今も撮影した画像はみられませんし、今後もこの寂しさ、悲しみは続いていくのだろうと覚悟を決めました。受け入れることにしました。
ブログにあげるさい、私は下書きをします。
なんどか読み直して、数日寝かせておいて改めてなんども読み直して推敲してあげます。
前回のブログで削除した部分を今日は書き込みします。
「M-1」は漫才のMだから議論になるのであって、お笑いの「O-1」として、お笑い全般のイベントにしたらよいのではと思います。
私の好みとして、「マジカルラブリー」さんや「ランジャタイ」さんは正直、よくわからない笑いで、楽しめないでいます。でも、大好きな人たちもたくさんいますから、漫才という枠を取り払って、お笑い全般にしたらどうかと思うのです。
審査員の方々の点数をみて、個人の「評価=好み」だと改めて思いました。
Amazonの配信映画やドラマも人それぞれで評価が異なりますが、それが人間の評価であり、人間らしくてよいと思います。ちがうことが重要なのだと思います。
AIに審査させたら、おなじ点数になるのではないでしょうか。
感情と感性がなくなれば、人は苦しみから解放されるかもしれません。
仏教の悟りとはそうした境地だといわれています。
体外離脱している人たちの感想では、肉体を離れると喜怒哀楽がほぼなくなるのだとか。
ですが、感情と感性がなくなり、アートを、文学を、音楽を楽しめなくなったら、なにか寂しい気持ちがします。
私はひとりの愚かで未熟な生き物として、最後まで人間らしく生きていたいです。
(了)