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台風19号の被災にお見舞い申し上げます/『無趣味のすすめ』を読んで

また台風が関東や東北をかすめる勢いで近づいているので、ほっとする暇がないですね。

神保町の祭りも土曜は中止かもしれん。
日曜にしわ寄せがorz なんとか分散してくれ。


「無趣味のすすめ」を読んだら、ロイヤリティ(カクヨムロイヤルティ)に参加せねば、という覚悟ができたので、不参加を取りやめることにしました。
こんなノリではまた不意にやめそうです。

図書館で出会った、気になる本。

「無趣味のすすめ」村上龍
「アリスのことば学」稲木昭子、沖田知子
「苔のむすまで」杉本博司

村上龍は「半島を出よ」が部屋に積ん読になってるし、「透明に近いブルー」も冒頭だけ、ちゃんと読んだ本は一冊もないのですが、カンブリア宮殿でお顔だけはよく知っとる、いかちぃ雰囲気の、でいて、「13歳のハローワーク」とか真面目な優しさを感じる方ですね。(勝手な雑感)

一つに、稼げなくても凹まないだろう、という感触が持てたこと。優先順位として金銭については後ろに回せると思ったという言い方が「無趣味のすすめ」っぽいでしょうか。

一つは、一方で挑戦しなければならない、と思ったこと。趣味って何だろうを突きつけられた感じはあります。


私にとって趣味は続かないもの、かもしれません。どこかで終わりが来るもの。
大抵、始めた後にある程度の目標や到達線が見えてくるからかもしれません。

その線は達成されたら、その先へいくつも越えて行けるものですが。進むか引くか選べる分岐点でもあります。


読書は終わりがないと感じていて、趣味の欄に書くけど、感覚としては趣味じゃなくて、生きねばと同じ種類の、読まねば、読みたい、しんどいこともつきまとう。

話を作ることも、趣味ではない感覚で趣味だととっくに投げ出してるなぁ、という感じです。
明確な線が見えてこないまま、ドロ沼にはまってるのがわかってないだけかも。

そも趣味がお金になっても一向に構わないと思ってきましたが、そうなると少なからず責任が出て趣味とは呼べなくなるのかもしれません。
でも、例えとるに足りないものでも、作るものには責任を感じていたい私に、むしろそのあたりの区別はないのかもしれません。

「無趣味のすすめ」を読んでぼんやりしていた自覚が少しだけはっきりしました。

正方形に近い装丁の本で、センテンスが短く簡潔。
『なるほど』と思った人は読み進められると思います。私がざっくり読めたので、早い人は30分〜1時間くらいで読了すると。


話書いてる時もそうですが、ちょうど考えてる事柄に対して、タイムリーに色んなことが起こるというか、引き寄せられることがありますね?

そんな時、それまで自分の中で決まっていたことを脱ぎ捨てて、乗っかろうと思います。
こだわらない。
そうするタイミングだったとでも言うように、思考より反射神経の方が使われる時で、吸収と書き換えが同時に起こって終わってるみたいなものです。
時代感覚がわからないから、せめてそうしたものをバンバン拾おーとします。

いつもは、これはこう!とくだらないことにしがみついてる姿をよくさらしてるんですが、肝心なとこが流されやすかったり、騙されやすかったり、優柔不断さに、おろかなスリルの匂いがするなぁ。と思います。
弱ってる時に来るものは、気の迷いとの区別がつかなくて、むずかしいです。
ウワサとか。


「アリスのことば学」はルイス・キャロルの(ペンネームだってことも由来も初めて知りました)不思議の国のアリスの中でどんな遊びや仕掛けがされてるか、など、ピックアップして解説している本ぽいです。
冒頭にまず書かれていた、『不思議の国のアリスの巻頭詩』に惹かれてそこだけ読みたくて、パラ見したていどなのですが、うーん、いい詩、面白い。

中はもっと専門的に解説していて、原作の小説を読んでないので、物語の入り口としてここから入るか。
原作を読んでいるなら、より興味深く物語に隠されたギミックに触れる機会になると思います。


「苔のむすまで」
写真一枚、一枚にびんびんと何か見えない気配が伝わって来る。

言葉の置き方、そして着眼点、画(え)、それぞれが芸術のような、はっとする瞬間ばかり。
しんとした沈黙のなかで声を聞いてるような、例えば9.11、例えば海外の方に悟りについて聞かれてから、仏典を読みあさったこと、そんなことに端を発した随筆かと思ったら、これは評論だそうで。
悠久の時の流れにとけて行くように、筆者の琴線に触れた事象が語られていきます。

村上さんのはエッセイだと思いますが、あれはあれでコンパクトな可愛さが良いんだけど、読んだらスパッと頭に入るけど、「苔のむすまで」はその時々に読んで味が変わるような、手元に置いて、噛めば噛むほど味が出てくるような印象です。

その中で紹介されていた、夢窓疎石の墨書を訳したものが、景色を詠んでるというのに、打たれるものがありました。

題雪
氷蘂(ひようずい)天に翳(かげ)して碧落(へきらく)無し
玉塵(ぎよくじん)地を埋めて、青山(せいざん)を没す。
太陽一たび出(いだ)す、孤峯(こほう)の頂、
徹骨(りゆうこつ)の寒(かん)来る、またこれ閑(かん)なり

「苔のむすまで」杉本博司 新潮社 2005.8 p170より引用


寒そう! と率直に言うと何かが台無しですが鎌倉時代末期から室町時代の禅僧、夢窓疎石は作庭をはじめて行った人だとか。そうしたことをちょっとコトバンクで調べつつ、最後の「閑」が空、寂、静を連想させて、むう、と唸らされるのでした。

噛めば噛むほど、がこの筆から伝わるといいなあ、と思いつつ。
随筆とも違う評論のそれはそれで、自由さを垣間見た気がします。

しんしんと、しみじみと、
これから寒い季節が到来する気持ちと今は重ねて。

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