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ひろこさん

十代のころ、精神病を激しく発症した。最初に入院した病院ではいろんな薬を試したが全く良くならず、酷い躁状態と薬の副作用で全く動けない状態を繰り返した。ハイになって壁一面にボールペンで文字を書いたり、ベットのスポンジをむしったりしたため「手に負えない」と判断され結果追い出された。
その病院のことは母からしたら辛い思い出で、今でも名前を聞くと嫌な顔をする。でも、主治医の治療法が合っていなかっただけで、良い人たちがたくさんいた。当時の記憶は断片的で名前すらよく覚えていないが、迷惑ばかりかける私に真摯に向かい合ってくれる看護師の方も多かった。

ひろこさんという患者がいた。高年齢の入院患者が多いその病棟で一番若いのが私、二番目に若いのが当時三十歳のひろこさんだった。
ひろこさんが何の病気で入院していたか私は知らなかったが、元々は看護師をしていたらしい。優しくて、花の名前をたくさん知っている人だった。

躁の私は入院中ずっと歌っていた。特に歌っていたのがソウル・フラワー・ユニオンの「うたは自由をめざす!」だ。「山口からうたは自由を目指す」などと替え歌して起きている間中歌い続けていた。

デタラメだらけの神々 家畜の歌合戦
世界の終わりのはなしが 茶の間に花そえる

ひろこさんは「その歌、よくわかんない」と言った。
私が「デタラメは分かる?」というと「分かる」と言う。「神々は?」というとまた「分かる」と。その調子で全ての登場する語句について「分かる?」と聞いたら「分かる」と答えるので、もう一回通して歌うとまた「分からない」と言うのだった。私はけらけら笑った。

ひろこさんを一度泣かせてしまったことがある。
最初私は「施錠!!」という紙がドアに貼られたトイレとベッドしかない部屋に入れられていた。そこから開放病棟に移ってからひろこさんと喋るようになったのだが、症状自体は一つもよくなっていなかった。怪物同然の私の存在は他の患者に悪影響を与えていたと思うし、ひろこさんにもひどいことを言ったのかもしれない。
ひろこさんの涙を見て、私は申し訳ないという気持ちで作業療法のときに作成した塗り絵を、彼女の病室の机の上に置いた。そもそも他人の病室に入ってはいけないし、全然謝罪になっていないが、怪物の私にはそんな判断はつかなかった。
次の日、ひろこさんはにやにやしながら「私の部屋に勝手に入ったでしょ?」と言ってきた。手には例の塗り絵があった。

躁のときは周りが辛い、鬱の時は本人が辛い、という話がある。その通りで、転院後躁が落ち着き、鬱がやってきてからが地獄の本番だった。躁時代のやらかしを自覚し、消えたい気持ちでいっぱいになる。迷惑をかけた人々への申し訳ない気持ちが溢れるのに、謝る元気もない。俳句が作れないどころか、本やテレビの内容すら頭に入ってこない。感情が平板化し半年ほどは笑うことも泣くこともできなかった。薬の副作用で食欲はだけはあって、体重の増加にも悩まされた。

ここ三年くらいは再発することもなく、結婚もして平和に過ごしている。認知機能の低下はあるが俳句も詠めるようになった。これ以上太るのが嫌で変薬の話も出たけれど、最終的に症状の安定を優先した。迷惑をかけた方々に謝罪はできていない。私の名前も見たくないという人もいるだろうが、これから誠実に俳句を書いていくことで恩を返していくしかないと思っている。

元気になった今、ひろこさんのことをときどき思い出す。怪物の私しか知らない彼女と、当時の記憶があやふやな私。街ですれ違っても、きっとお互い気付くことはないのだろう。


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