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アンリアルにひそむ「別日本」とは?

コーヒーブレイクに、ちょうどいい近況ノートですけれども、「唯本論」というか、書の世界に触れるのは素晴らしいことです。しかし、検索エンジンの批判に対して、有効な手立てが見つからない中で、非常に画期的なアプローチだと考えられるのが、グラフィックスも含めてゲームエンジンなんですね。
端的に述べると、ユーザビリティという側面で、個人的に蓄積した文章術の「アンリアル」に、この考え方を採り入れることは、日本語の物語を生き返らせ、新風を吹き込みたい筆者にとって、とても貴重なことでした。
そして、検索の知に対抗できるビジョンにぴったりなのが、別様の可能性を追求した、もののずばり「別日本」だと考えられるわけです。
ぼくは、丸善で催されていた、松岡正剛さんの追悼コーナーで、「別日本で、いい。」(近江アルス)という資料を手に入れていました。特製の雑誌のように、面影と一対になるコンセプトと向き合っています。しかし、「うつろい」や無常だけでなく、まだ、目次をチェックしただけですが、およそ、意味するところは、日本の仏教立国を数冊の書で済ますには、別様の可能性といって、擬き日本を議論するに足りる巨大な見立てが動いている。或いは、現実から離れて、本来の日本を煮しめていくと、もうひとつの宗教国家の云われが、別の現実に存在するというインプレッションを拭いきれません。
きびしい仏教修行を体験しなくても、渾身の読書をもってすれば、「別日本」を体感できるというようなニュアンスを受け取っています。
そうであるのなら、ぼくの「アンリアル」を利用して、このような別日本を描き込んで、ディテールを可能な限り埋め尽くすと、何が起きるでしょうか?
筆者のぼくにも到底、分かりませんが、大いに興味を抱いているところです。日本を、別日本として描くことと、異世界のファンタジーというジャンルに企画がカチッと合致することについて、運命的な出会いを禁じ得ません。
ところで、ぼくは、松田優作さんが、大杉栄のように死去した年齢に近づいていますけれど、生前、インタビューなどで語っていた日本的状況に対する心配について、同じく、次のような感想を持っています。
知性で済ます時代には、実際の経験が足りないというけれど、その経験で上手く行かないから、知性に手を伸ばしたのであって、日本人には日本のやりくちだったり、独自の方法論のようなものがないと、これから先もアメリカのコピーに終始していくことになる。その場合、日本の模倣やコピー能力に対して、アメリカの落ち度さえも踏まえて粗製乱造してしまうとするなら、日本は、むしろ、アメリカよりも荒廃した世の中を築いてしまうわけでしょう?
そのときに、日本史を通じて「書の世界観」というのは、文明史的な観点から眼を凝らしてみても、妥当な手段であって、方法の再発見であると目から鱗が落ちる思いです。

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