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答えのないテスト?

先生方ご自身が言ってしまうことすらあるこのセリフ。
「国語のテストに答えはない」
どう思われますか?

例えば「三人を助けるか一人を助けるか選べ」とか、「恋人を助けるか子どもを助けるか、究極の選択をせよ」というような問題ならば、そもそもテストに出して丸ばつを付けてはならないものでしょう。また、授業か何かで漱石の「こころ」を読んでどう感じるか、というのも答えなんかありませんし、そもそも感想文なんてものに正しいも正しくないもありません。

では、「国語のテスト」で出題される、「〜について説明せよ」という問題はどうでしょう。

特に評論文の場合、筆者は確たる思想や思考を元に執筆しています。テストの傍線は(悪問がありますから一概には言えませんが)だいたい、長い文章の中で筆者の主張の核になる部分であったり、それを簡潔にまとめてある部分であったり、また理解してもらうための具体例であることがほとんどです。
それを説明せよ、というのに、果たして答えがない、などと言っていいものでしょうか?

「答えがないから解けない」でお茶を濁して来たツケなのでしょうか、最近SNSなどでよく見かける、「解釈違い」という言葉があります。それが、二次創作ものに対して使われるのはわかるのですが、一つの独立した作品に対して、「自分の見方」(こうであって欲しいという願望や自分個人の経験則・先入観を織り交ぜて作品を歪曲して見る方法)を押し通して、他の見方の人や、あろうことか作者本人に対して「解釈違い(笑)」な記述を見ると、大丈夫だろうか、書かれた文章は正しく伝わっているのだろうかと不安になります。

これが小説や漫画に対してだけならよいのですが、新聞や思想にまで筆者を無視した読み方・見方が定着してしまったらと思うと、ちょっと恐ろしいです。
文章には読者より先に書かれた背景があります。今一度、読み方を見直すのもいいかもしれません。


(※誰かさんが乱発している小説のように、主張がどこかに飛んで行っているようなものはその限りではありません、悪しからず。)

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