愚かな人間を愉快な人間としてでなく愚かな人間としてしか描けないことほど不幸でみじめなことはない。手垢のついた手でこねくり回された言葉と、妙なシニシズムのせいで浮ついた形容は滑稽である。正午の本郷で聞いた、多分人生で初めてライ麦パンを口にした大学生らしき男の子の「このパン、ソ連の味がする!」はまさに天使の瞬きのような、郊外の高原に寝転がって一つ目の流れ星を捉えた時のような、ひねくれのない鮮やかな言葉だった。
わたしの言葉は、どうだろう、と考える。
わたしの言葉は、とりあえず今のところは、この世でもっとも的確に、衒いなくわたしを表すことができるもの。20年間生きてきて、ようやっと、わたしの言葉はわたしの心とからだにぴったりと沿うようになってきた。だぼだぼのスーツのように、言葉とわたしとの間にできた隙間のせいで息切れすることもない。悪気もなく誰かを傷つけることはぐっと少なくなってきたし、なにかうまいこと言ってあの人をギャフンと言わせてやろうと思うことももうない。
今日会ったのは大学の同級生で、医者の卵のKくん。いとこが結婚したばかりで、彼はおばあちゃんに会うたびこう言われるらしい。
「Kくんのフィアンセは、まだかい」
いいなあ、と思う。「フィアンセ」って。おばあちゃんの素直な気持ちが手にとるように伝わってくる。こんな言葉にくるまれて生活がしたい。どんなかっこいい言葉もうまい諺も、とりとめのない言葉には敵わない。