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「ギルダ、あるいは百年の空白」6章1話完了

「ギルダ、あるいは百年の空白」6章1話、完了しました。
https://kakuyomu.jp/works/16817330650654309052

すでに2話目に突入していますが、2話目全4回分にて完結の予定です。もう少しですがよろしくお願いいたします。

この6章が2話分しか無いこと、5章の3、4話目が長大なボリュームになってしまったのでこの辺の章立てを本当は見直しした方がいいのではないか、とも思いつつ……。
いっそこの第6章自体が、6章ではなくエピローグという表記でもよかったぐらいかもしれませんが、それを避けたのは本話で書いたクロモリとの再会シーンが、裁判の下りを付け加える以前の大元のプロットにおける最大のクライマックスという扱いだったから――つまりエピローグではなく本編の範疇だから、だったりします。
(だとするとこの1話目を5章5話目にして、残る2話をエピローグ扱いにしても良かったのかな……この期に及んでうだうだと悩んでおりますが……)
ここで魔法使いが今更登場する展開、作劇用語でいうところのデウス・エクス・マキナに相当するのかな、とも思いますが、こういう理屈でうまく説明がつかないような超展開が起こって、不思議な話でしたね、で許されるのはコメディかもしくはいいところ短編までではないかと思いつつも、当初構想通りに書いてしまいました……。

4章の結婚式のシーンも初めて書きましたが、本話の葬儀のシーンもあまり書いたことのないシーンでしたね。
その葬儀についてですが、本作の物語の舞台となるウェルデハッテの診療院が元々「僧院」だった、と書いているのに、宗教的なバックボーンについての記述が作品全編を通じて大変に希薄である、というのが読んでいて大きく気にかかる、本作の弱点の一つではないかと思います。
実在のヨーロッパを舞台にした史劇などの場合だと当然現実のキリスト教の存在を無視するわけにはいきませんが、おもにRPGをルーツとする和製剣と魔法のファンタジーにおいては書き手の側がそもそも宗教意識が希薄なところに、異世界だから、という理由で実在の宗教色とは極力無縁でいられるというメリットがある(宗教観をリアルに描きこむ必要がない)一方、宗教文化習俗の描き込み自体が浅くなってしまうがゆえに世界観がウソくさく見えてしまうデメリットもあって、まあ両刃の剣的な要素ではないかな、と思います。必ずしも実在のキリスト教的価値観に限定されずに済む、考慮しなくて済む一方で、まあそれでもリアリズムという観点で言えば、習俗として一切無宗教というわけにもいかないですよね。
ゲーム的な発想でいうと「女神の加護を受けて……」みたいな形で都合よく面倒見てもらえる神様が沢山あるに越した事はないので、いろんな神様・女神様の神殿が複数あったりして、ビジュアルイメージのベースは中世ヨーロッパ風なのに宗教観はギリシャやローマなどの古代文明風というちぐはぐになってしまいがちなのがアマチュアリズムでございます。
(「神殿」や「教会」が混在する社会、というのも神社とお寺がごっちゃになってる現代の日本人らしい宗教観なのだろうな、とは思います……)

日本における事情から離れて、元々ヒロイックファンタジーというジャンルで多神教的宗教観になるのは、アトランティス文明のように古代以前に勃興・隆盛したが一度滅して歴史から忘れられた文明なのだ、という想定での世界観創作がなされていたからのはずで、そもそもはもう少し古代寄りの文明発展度ではあったはず。一方でテーブルトークRPGの方は元々中世ヨーロッパの攻城戦をモチーフにしたボードゲームがルーツだったところに「指輪物語」的な種族の概念が合流したりして、その過程で剣を振り回して馬に乗って、というジャンルにおける大雑把なビジュアルイメージが中世騎士道物語的に解釈され、そちらに転じてしまったという事なんでしょうね。この辺り、冒険者パーティの面々に職業として「僧侶」がいるところから、その僧侶の属している宗教団体は何ぞやという発想の膨らませ方だったり、あるいは村や町にかならずセーブポイント/蘇生拠点としての「教会」があったドラクエの影響も強いのかな、と思ってみたりしますが(「ウィザードリィ」にも僧侶・司祭という職業があるのでドラクエにおける僧侶もここからの引用なのだと思いますが)、一方で「ファイナルファンタジー」のように回復・防御魔法/攻撃魔法の区分を白魔導士・黒魔導士というような区分をしているケースもあったはず。白魔法の使い手を宗教関係者に設定するから、宗教観的に悩ましい問題になってしまう、ということなんでしょうかね……。
本作でも宗教価値観をリアルに描き込む意図はさらさら無いのですが、とはいえ話の都合で田舎の村に象徴的な立派な建物を出したくて礼拝堂のある僧院という舞台を用意してしまった以上、一切宗教などないかのように振る舞うのも本来は不自然かと。不釣り合いに立派な僧院の建物があったのなら戦争が終わったら僧侶が戻ってきて、建物を返せ、という話になるはずとの想定から、後年僧侶が戻ってきて礼拝の時だけ礼拝堂を借りてます、という記述を言い訳的に付け足しはしましたが、その僧侶云々もその記述を除いては一切登場しませんし、結婚式も頑張って描いたように思わせて実際の式が始まる前の顔見せの下りで切り上げてますし……とは言えさすがに葬儀まで無宗教というわけにはいかず、何か雰囲気を出す程度には描写が求められるかと思いまして、この辺は加減が難しいところですね。
各話タイトルで別離や死去のニュアンスを出したくてあれこれ考えた一案に「塵は塵に」というのがあったのですが、念のため調べてみたらこれは実際にキリスト教の聖書にある言葉で、神が塵に息を吹きかけてアダムを作って、そのアダムが死んで塵に帰るのだ、という記述から来る言葉なのだそうです。今回調べてみるまで全然知らなかった! その上で自分で書いた本文の記述を読み返すと、ギルダがコッパーグロウの死を思い返して、自分も塵に戻るのではと不安がる、という記述があるではないですか。これを踏まえた上でのそのサブタイトルはさすがに出来過ぎだろう、ということでその案は不採用にしたのでした。先述の話からするとそこで現実の宗教色がついてしまう、という問題が発生する事にもなりますしね……。
多分キリスト教的な文化素養のある人でなくても、多少一般教養のある人であれば「塵は塵に」の意味合いなど常識中の常識だったのではないかと思います。2章でコッパーグロウを塵にしたのは単純に戦闘シーンの終わらせ方としてカッコよかろう、ぐらいの軽い気持ちで書いた描写で、その描写をあとから読み返した上で本章のギルダの不安云々というのも、これも雰囲気で書き足したもので、そういう意味では物知らずがさも知っているようにものを書くって、ホント怖いですよね……。

つらつらと長文になってしまいましたが、あと残すところ1話、よろしくお願いいたします。

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