・カクヨムであまりにも読まれなくて、近況ノートで発狂している人がいた。そのストレートな物言いは、どこか胸に響くものがあった。私は、いわゆる「なろう系」は読めないので、だれか読んであげてほしい。
有史以来、ほとんどの詩人の読者は一人だけ、つまり、本人だけという時代が長かったのだから、それに比べれば、いまの環境は恵まれているとは思うのだが。そんな現在でも、本当に自分の書きたいものを書き散らせば、読者は自分だけになりかねない。しかし、それならば、それでもいいじゃないかと自分を励ます私がいる。
このせっかく書いたのだから、だれかには読んでもらいたいと思う気持ちは何だろうか。承認欲求のひとことで片づけられても良い感情なのか。明確な答えはまだ出ていないけれど、なにかちがうような気がする。何で、読んでもらいたいのだろうか。ふしぎな感覚だ。わからん。
・ある方の文章が試験の問題にされたが、文章の解釈が作者本人の意図するものではなかったそうだ。
文章というのは公になったあと、作者の手を離れ、その解釈は読み手それぞれに委ねられる。妥当な解釈はあっても、正解はない。作者の解釈が正解というわけではない(その方は、その点を理解されていた)。
私にはよくわからないが、テキスト主義というやつか。でも、これも行き過ぎると、解釈からうるおいといったものがなくなるよね。
・気持ちの整理がつかないことがあったときは、とにかく、寝るに限る。整理がつくわけではないが、心は落ち着く。ここで大事なのは、むりに整理を急がないことだろう。整理がつかないまま、抱え込むのはわるい選択ではない。自分も変わって行くし、状況も変わって行く。よいタイミングで整理すればよい。そのようなに私が考えていたところ、村上春樹も似たようなことを言っていたので、勇気づけられた。
きょうはお昼まで寝ていた。
・新作だが、不完全ながら、やりたかった枠物語ができたので、一満足。しかし、連作短編の怖いところは、最後の方は読者がゼロになりかねないところだな。ゼロは嫌じゃ。
Procambarus clarkii Ⅰ
https://kakuyomu.jp/works/16818093072867921527/episodes/16818093072893808768