・「ず」と「づ」の発音の区別は、現代では失われているが、昔はちゃんと違う発音がされていた。「エ」と「ヱ」もそうだ。大昔の人が口にすれば、「エヴァンゲリオン」と「ヱヴァンゲリヲン」は異なった発話となる。ただし、江戸末期以前の人は、「ヴァ」の発音ができないので、教えてあげないといけない。江戸時代には、「ハ・ヒ・フ・ヘ・ホ」もなく、「ヒャ・ヒ・ヒュ・ヘ・ヒョ」だったらしい。
まあ、録音装置のない時代の話だから、どこまで本当か知らないけれど。
・里中満智子さんの「天上の虹」はいつ、電子書籍化されるのだろうか。いつも手元に置いておきたい一作。
・KACは連作短編に挑戦する予定。いまは、作品世界の枠組み(関数)を決めている。変数であるお題を作品世界に投げ込むことで、話をつくる予定。
その中で、枠物語に挑みたい。丸谷才一の樹影譚のような複雑なものにする気はないが。枠物語というのは、物語の中で、別の物語が語られる作品のこと。
・カクヨムでまったく「宣伝」をしないで、読まれないことに不満を抱いている者は、カクヨムで小説を読んだことがないのだろう。
読む立場になり、自分の趣味にあった作品を探すのに苦労してみれば、「宣伝」しなければどうにもならないことがわかるだろうに。
・他人の話を柔軟に受け入れられる思慮のある人間は、そもそもSNSに近づかないだろう。議論の価値を知っている人間は、その賢さゆえに世間でいうところの「議論」には最低限しか加わらない。
・出る杭は打たれるということわざは、よくよく考えると意味がわからない。出ている杭は打たなければ、危険であろう。優秀な人間を出ている杭にたとえるのはむりがある。問題のある人を出ている杭にたとえるのならば話は通じる。問題のある人から優秀な人間へと、対象が変容したのだろうか。もともと、どういう意味合いで使っていたのだろうか。
類表現の「高木は風に倒る」ならわかる。出る杭が打たれるのは、自然な話である。繰り返しになるが、危ないから。
・俳優という漢字は、俳も優も、もともと踊り子(女性)の意味だったはずだ。俳優が主に男性に対して使われるのは、元を考えてみれば、おかしな話である。
・「セクシー田中さん」は原作もテレビドラマも触れていなかったので、他人事といえば、他人事であったが、西炯子さんの「たーたん」が「セクシー田中さん」と似たような布陣でつくられるとなると、話が変わってくる。芦原妃名子さんと同じ目に西さんが遭うのは御免蒙りたい。
というようなことを考えていたとき、ふと、星新一のことを思い出した。
私は星新一に、原始仏教でいうところの愛情のようなものを抱いているので、映像化作品には非常に厳しい。どうせ、大きな不満(ストレス)がたまるだけなので、見ないことにしている。
その原因となったのは、鬼頭莫宏さんの「空への門」である。読んで、ぶちぎれた。
よくも、星新一らしいシニカルな好短編を、きわめて安っぽいヒューマンドラマにしてくれたなと憤ったのである。
鬼頭さんは、日本が世界に誇るマンガ家であるが、あの作品はいただけなかった。ゴミであり、カスであると個人的に思った。鬼頭さんにも、〇〇〇〇〇〇。
もちろん、今となっては、鬼頭さんには鬼頭さんの星観というものがあり、それは尊重されるべきものなのだが、当時の私はそこまで思いが至らなかった。若気の至りというやつである。
私はどうも、星新一がからむと厄介な人間になる。年を重ねて、ようやくそれに気がつくと、努力して、人と星新一の話はなるべくしないようになった。深い話は避けるように心掛けている。
愛情が深いもの、それに深く囚われているものについては、あまり他人と話をしないほうがよいというのが、星新一を巡る他人とのやりとりから、私が得た教訓である。
私が、星作品の映像化の過程で生まれた改変に感じた憤りの何百倍、何千倍のものを、芦原さんが感じたのかもしれないと思うと、そりゃ、耐えがたいわなと思った次第である。