「さっき、もっと強い者がここにくると言ったが、お前は、どの目で見ているのかね。その子供の目か、それともお前の目なのかね」
「俺は、このガキの目と俺の目で見ているんだ。覚えておくんだな。お前にできることは、現象(フェノメノ)を見ることだけだ。お前らが本体(ノウメノ)と呼ぶもの、隠されているものをお前は決して知りえない」
イタリアの高名なエクソシスト、カンディド神父が、悪魔に憑かれた少年の悪魔祓いを行ったときに“悪魔”に言われたセリフです。が、この「お前はどの目で見ているのか」って、そのまんま、キャラクターの人称(論)にも当てはまる気がしてならないのですよ。
〈神慈悲〉Ⅳを週末(今後しばらく金・土のいずれかに章ごとに)予約公開設定にしたので、その前に近況ノート入れとこうと思って書いています。
Ⅳはこれまで以上にあの人の一人称が多くなってきており、その影響で注釈も加速度的に増える傾向にあるのですが(笑)、でも一応小説でして宗教パンフレットや解説集ではないので、「私(作者)は知っていてもキャラは知らないこと」を本編中に書いたりはしていない。
逆に「書き手が知らないのにキャラが知っている」設定のせいで死ぬほど苦労してるんですが。アレとかアレとかアレとか。
私はほとんど小説を読まない人間なので、偉そうなこと言えないのですが、一人称を書いているうちに、作中世界はキャラの目から見た世界である、と思うに至りました。Aさんが見ているBさんと、Cさんが見ているBさんは、本当に同じ人間か?
で、キャラを生み出す過程に少なからず書き手が関わっている以上、作中世界は作者(書き手)がとらえた世界でもある。
読者はキャラの目(=一人称)あるいは神の目(=三人称、作者の視点)を通して、その世界を見ることになる。
読み手にとっては、その視点に共感できるかどうかで、その小説の好き嫌いが決まるのかもしれません。
救いようがないと思われる世界にほんのちょっぴり救いがあったり、逆に全くなかったり、ギャグかなと思っていたら意外と深遠なこと言ってたり…とまあ、中にはほんとに箸にも棒にもかからねえなあと思うものもあったりしますけれども。個人的には、下手に救いがあるよりは全く救いのない話の方が好…あわわ。今後に差し支えそうだからオフレコにしよう。
自分でも、なんでこんな筆致でこんなもん書くんだろうなあ、と思いながら書いています。
とはいえ、キャラ=作者、ではないですし、キャラの言っていること=作者が言いたいこと、でもないんですが。もしそう見えるとしたら、意図的にせよそうでないにせよ、そう感じさせる書き方をしているか、あるいは読み手側の事情なのかもしれません。
作者は全てを知っている(ことになっている)けれど、必ずしも全てを書くとは限らない。
そして、作中に書かれなかったことは「決して知りえない」のです。