ようやく、着手出来ました(^_^;)
ちなみに助川城総攻撃は2回ありまして、1回目は8/28の山野辺氏が籠もっていたときの戦いです。
これは私も茨城県側の資料を調べて、初めて知った次第です。ちなみにこのときは、同時に「神勢館の戦い」も起こっていて、二本松藩どうなっているの?と思ったものでした……。
ここから導かれたのが、
・家老(源太左衛門)→助川城総攻撃に加わる
・鳴海+与兵衛→神勢館の戦いに参戦
という結果でした。
そして2度目が、山野辺主水正が二本松軍に投降した後、空城となったところへ立て籠もった「散切隊」らに対する攻撃です。
ところで、作中ではあまり詳しく書かなかったですが、鳴海らが9/9の「久慈浜・石名坂」の戦いで散切隊と激闘を演じたその日、「山野辺家中」の家臣らが助川城を放棄しました。
ですがここで一つ生まれる疑問が。
このとき、「助川城を攻撃したのは誰か?」
これは明確な定説がないようですが、地元(日立地方)では長い事「散切隊の仕業」とされていたようです。
ですが、そうなると二本松側の記録などに出てくる「散切隊は久慈浜の方に撤退した」という記述と合いません。
そして、もう一つの説として「諸生党による攻撃」というのがあります。ですがこちらも、この時体が空いていた?相羽九十郎は、一足先に助川城を脱出した大津彦之丞を追って、入四間方面にまで追っていき、討ち取りました。(中染合戦)
……となると、彼も不適です。
そこで私が着目したのが、「寺門登一郎」でした。
作中にあるように、元々は額田村出身の一介の博徒です。ですが、あれよあれよと(恐らく)戸祭らに見込まれ、200名の兵を率いるまでに立身しました。
どのタイミングで兵を与えられたのかはわかりませんが、この9/9の石名坂の戦いの頃には、一廉の武将クラスとして扱われていたのではないでしょうか。
ただ、出自が出自ですからね(^_^;)
諸生党の記録でもあまり好意的には描かれておらず、後で慶応の戊辰戦争のドサクサにまぎれて、処刑されました。
ちなみに彼をうまく使っていた戸祭も、やはり処刑された次第です。
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彼らの処刑までは書くことがないでしょうが、二人が辿った運命を思う時、人の無常さを感じずにはいられません。