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近況ノートに画像を掲載しよう!キャンペーン

ご無沙汰しております、アヤナミ シュウスイです。
この度、近況ノートで画像が掲載できるようになったという事で、早速僕も利用してみようと思います。

先日読了した本『闇の歴史、後南朝 後醍醐流の抵抗と終焉』(著:森茂暁)の感想と共に、
僕の好きな日本中世・南北朝時代について書いてみようと思います。

まず本書の内容はタイトル通り「後南朝(旧南朝)」なのですが、
これは、鎌倉幕府の倒幕を望み、実現させた後醍醐天皇の建武の新政が失敗し、もともとは一緒に北条氏を倒した仲間であった足利尊氏と戦うことに。

天皇と戦うのは「賊軍」とされ、不敬かつ不名誉なので、尊氏は何とか知恵を絞って、
後醍醐天皇が本来属していた「大覚寺統」と、長年皇位を争ってきた(後醍醐天皇が倒幕を志した原因の一つ)「持明院統」から皇族を連れ出し、
京都に足利幕府とその朝廷(=北朝)VS.後醍醐天皇が吉野でひらいた朝廷(=南朝)
というのが、南北朝時代の簡単な系図です。

しかし、南朝は基本的に劣勢で、紆余曲折を経て、足利義満との和約によって、南北朝は合体しました。

合体後、約束と違って、南朝から天皇が即位されないのを怒って、反乱を行った旧南朝皇胤と勢力を、「後南朝」というのです。


後南朝の史料は非常に限られているのですが、本書によると、南北朝時代が先述したように、
両朝廷・公武間での動乱だったのに対し、
旧南朝(後南朝)は、反幕行動の大義名分的存在だそうです。

もはや積極的に幕府と戦う余力が無い後南朝なのですが、彼らを支持したのは、必ずしもかつての南朝のように、後醍醐流の天皇による政治を望んでいるのではなく、
足利幕府に反感を抱いている武士が、旧南朝の皇族を「利用」するかたちで、反幕府勢力となっていたのです。

それ故に、幕府は南朝皇胤への出家を奨励して即位させない方針から、
「およそ南方御一流、今においては断絶さるべしと云々」という、強硬手段に出るしかなかったのです。

最後に史料に出てきた南朝皇胤は、あの応仁の乱で西軍に担ぎ上げられた「西陣南帝」というそのままな名称の皇族?です。
もはやその人物が本当に皇族なのかも怪しいほどに、後南朝の史料は乏しいのです。

しかし、承久の乱による後鳥羽上皇を幕府(臣下)が流罪に処すという先例が、後醍醐天皇を隠岐へといざなったように、
この南北朝・後南朝時代によって、明治政府では忠君思想を、戦後まもない頃にはその逆を支持するなど、
今日においても、重要な先例であり続けているのは、後醍醐天皇の信条でもあった、
「朕が新儀は未来の先例たるべし」
そのものであるなと、本を読めば読むほど強く感じます。

つい長文になりましたが、まだまだ語り尽くせない事や、写真を掲載できるようになったので、より多くの事も語ってみたいので、今回はこれにて。

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