アニメ「ぼっち・ざ・ろっく!」(以下、ぼざろ)全12話を先日、観終えた。
面白かったのに、どうして放送当時は3話くらいまでしか見なかったのか。きっと逆張りか体力の問題だろう。
正直、一時期のことを思えば、アニメを観る頻度や量は減っている。観るとしても、古典的とも言うべき過去の名作が多く、新作もやはり3話くらいまでで止まってしまう。
別に「三話切り」というネガティブなものではなくて、コンテンツに対する優先順位の問題だ。
例えば僕の中で、映像作品では映画が圧倒的に優先度が高く、それは映画感想文をnoteに書いている事からも明らか。
アニメはあまり感想を書かないが、やはり好きではあるので、観ていない訳ではないし、もっと深く知りたいからこそ、昔のアニメも触れている。最も優先度が低いのはドラマか。
そんな僕が、ふいにぼざろをもう一度見始めることにした。きっかけは分からない。とにかくほぼ一日で残りの話数を観た感じ。
Twitterをしていた時は、ぼざろの二次創作イラスト・マンガをみたりもしたが、当時はやはり逆張りしていたのかも。
「ぼっち」が主人公というラノベ感もあり、バンド漫画できらら作品。ごちうさなども好きだが、癒し系・日常系アニメに自身の価値観や思想に強く影響は受けることは稀だと思う。
勿論、映画でも多くはないだろうし、そんなころころ考えが変わってはミーハーとも言える。
いや、しかし流行のアニメばかりを追うことこそ、ミーハーそのものなのだから、やはりアニメの中でも優先度が昔のものが多めになるのも致し方ないのか?
そんな拗らせで、結局消費しかできていない人間が、「ぼっちちゃん」の頑張りを通して、自身の背骨がどろどろに溶けていたのだとようやく気付かされた。
僕はバンドや楽器をしようとは思わない。
なぜならば小説執筆というものが既にあるからだ。
だけれど、僕はぼっちちゃんのように毎日なん時間も小説を書き、そして毎日投稿しているわけではない。
質が悪いことに、実は毎日投稿していた時はある。なので、きっと今からも出来ないわけではない。ならどうしてしないのか。
それは繰り返すように、消費に時間を割きすぎているからだ。摂取といってもいい。世間でいうところのインプットが過多でアウトプット不足。
もちろん、これを彼女らにおける「練習」に置き換えれば、決して悪いことどころか、創作を行う際の幅にもなる。
けれど、彼女たちは練習の精度を高めるのが目的ではない。これは手段だ。待ち望む夢と披露するライブを成功させるための。
「○○(今回はぼっちちゃん)かわいい」でまた終わるのか。
それともこれまでのリアルを抜け出したくはないのか。