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飢餓感

 飢餓感に常に突き動かされている気がする。
 この飢餓感というのは様々な場面で起こる。何か良いことがない、良いことに飢えているという感覚。良い物語に飢える感覚。世界の狭さを感じる瞬間、私は世界それ自体に対して飢餓感を覚えているのかもしれない。知性が知らない何かを求めている。何か聞いたことがある、既視感のある、どこかにあるような、在り来りな話を私は求めていない。……が、大半の人間はその飢餓感に折り合いをつける。反復の中に埋没していき、反復のために生きる。システム化された人間……フォーディズム的か、トヨタ生産様式かは定かではないが、そうなった瞬間、人間は自らを決定づける権利を失う。私は例え自身の決定によって飢え死んだとしても、決定権だけは放り出したくない。これこそ私と他人とを区別する一線なのであって、言ってしまえばそれ以外に自分と他人に違いなんてないんじゃないか、とすら思う。動画サイトで見る動画にしてみたところで既視感は拭えない。大抵の創作物は創作者の理想的なイマージュの反映である以上、物語の根本的な型式は変わらない。クリエイターが聖書や神話をひきたがるのは一種のイイワケであり、つまるところ、僕の物語はこの神話と大差ないのだ……という一種自虐的な自己開陳のような気がしないこともない。
 世界が狭いと思う時、知性は飢餓感を訴えている。世界の外側、自分の知らない未開拓地<フロンティア>がどこかにあるはずだという感覚。世界は常に狭い。情報量が溢れていけばいくほど人間は知識だけで世界にアクセスし得る。現代人とは電子情報<デジタル>に毒された耳年増である。
 結局、私が創作をやめられないのはこの飢餓感に対する答えが創作以外にないと思うからで、そう話すと創作が好きな人間みたいだが、最終目標も中期目標も目の前の感覚も全てが創作の一言で回答出来てしまう世界観というのもそれはそれで息苦しい……つまり、自分が創作しない限り、私は飢え続けるというだけの話なのだ。
 そういうわけでじきに物語を書かなければならないだろう。飢餓感に答えるための自炊行為……。


こういう記事を書かないと、毎月の記事更新をやっている気分になれないことに気がついた。これも飢餓感と言うべきなのだろうか?……。

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