貧困と精神の関係性について考えることがある。
精神や魂の中立性というのは笑止千万も良いところであり、実際には精神ほど中立性を保てない、あやふやな地位・立場のものは他にない。
いわゆる天与・天賦と呼ばれる気質や性質でさえ、実際にはその人物の生まれ持った土地の風土や風習によって左右されるものであり、もし仮にこの所在地が変動を余儀なくされるという幼少期を過ごした人間が居た場合、それは所在地が変動するという風土性を内面化することになる。
人間を二元論的に捉えれば、人間は精神と肉体に二分割して解釈することが可能となるが、このうち不動不変により近いのはどちらかと言われれば、それは肉体である。
というより、肉体の劣化や老化とはあくまで時間という概念を基礎にした一方通行のものであり、少なくとも精神なるものと違い、方向が限られている。精神は後退するし、前進するし、左右に動き、ありとあらゆる、あらぬ方向へ進行する……。
もし仮に、ある個人に纏わる不動不変のヴィジュアルが存在するとすれば、それは相対的な肉体なのではないだろうか?
つまり、誰かが見たその個人に対するヴィジュアルこそが不動不変のものである。
三島由紀夫の肉体を不変と捉える思想は、彼自身が非常に相対的な、観賞されることを前提とし、常に衆目を集めようとする人物であったことから、相対的な肉体の不滅を訴えるという意志から来たものなのだろうと考える。
精神はあやふやなものであり、ある思想家が晩年において思想的転向や転換に至るというのはありふれすぎて逆にそうでない人物を探す方が難しい。
苛烈な言い回しと白人への攻撃的態度で知られるマルコムXでさえ、晩年には穏健な主張となり、黒人運動に対する冷ややかな態度を垣間見せることがあったと言う。
そこで考えたのが、貧困なるもの。その長期化が個人に齎し得る害悪である。
ある人物の幼少期が貧困に塗れ、それへの対処で埋め尽くされていた時、その人物の思考はどれほど制限されるものだろう。
貧すれば鈍すと昔の人々は言うが、鈍じた先の人間については描写を避けている。これは人道主義的観点から言えば褒めうるが文学的には褒められたものではない。
貧すれば鈍す、鈍すれば……人生はそうカンタンに終わってくれない。今や人間は自殺という愚行権を手放そうとしている。何ということだろう! あゝ、今や至高の自由は遠くになりにけり……。
いい加減今月はカクヨム向けに短編を出したい。
というか新人賞向け作品全ッ然書けてない。やばい!
何とかする!
あと来月は憂国忌だから、今のうちに憂国忌向けの先生関連の小話を書いておきたい!
じゃ、そういうことで!!!