過ごすという表記に違和感がある。
私は小説を書く時に、例えば書く・描くのように記述が意味する要素がハッキリとしている文言についてはハッキリ書く・描くと記述することができる。書くは文章で描くは絵だと言うのが直感で分かると思う。描写・描画という熟語があり、反面文書、書面といった熟語がある。そうなると明確に書くが文字であり、描くが絵だということが理解できる。すると画面とは絵的(描画)な面(書面)である。成り立ちが何となくで察せられるので文字というのはよく出来ていると感心するわけだ。
さて……過ごすという字を考えてみよう。
人がそこに居て、時間が経過している状態をもってまず「すごす」という言葉がある。喫茶店で癒やしのひとときをすごした、地獄のような日々をすごす……ところがこれが漢字で書くと「過ごす」になってしまう……何か妙な気がする。
すごすとは過去であり、何か時間を時間軸から経過させるような感じがしてしまう。先程の例で行けば
「地獄のような日々を過ごす」
であれば、地獄のような日々を耐え忍び経過させるというニュアンスになるが、今度
「喫茶店で癒やしのひとときを過ごす」
の場合、この時間はかけがえのないものなのだから、経過させるという意味合いをもたせると妙な感じになる。結果として、ではどのように表記するべきかと言うと
「喫茶店で癒やしのひとときを楽しむ」
「喫茶店で癒やしの時間を享受する」
の方がよりしっくりと来る……無論、過ごすと記述するのはおかしいことでもなんでもないのだが、小説とは基本的に文章の羅列であるわけだから、一句の気持ち悪さが存在すると、その部分がやたらと後を引く……ような、気がする。
何より、書いている本人が書いていて気持ちの悪い文章というのは他でもない記述者本人の執筆モチベーションを削ぐものだ。
例えば三島由紀夫は”蟹”が嫌いだったと言う。
彼がこの「蟹が嫌いな話」をする時の文章が『不道徳教育講座』には存在するのだが、ここの記述が面白い。
「こんなことを白状するのはバカの骨頂ですが、何を隠そう、私はカニに弱い。私はカニという漢字ぐらいは知っているが、わざわざ片仮名で書いたのは、カニという漢字を見ただけで、その形を如実に思い出して、卒倒しそうになるからです。」
そう、つまり蟹という文字を見るのが嫌なので彼はわざわざ片仮名で”カニ”と書いたのである。
三島由紀夫と蟹の関係性については澁澤龍彦が『三島由紀夫おぼえがき』の中でかなり面白い話をしていて、今年の憂国忌にはこの『三島由紀夫おぼえがき』と『不道徳教育講座』を引用して
『三島由紀夫の肉体性』
という文章を一つ書こうと思う。だいたい四ヶ月後になるだろう……と考えると、一年の早さとはこのようなものかと少し焦るような、感動するような感じがする。
さて。
今回の話はまさしく「過ごす」話である。
つまり……人には駄目な日というものがあり、駄目な日にどのように”過ごす”べきかについて話をする。
先程の用法を思い出して欲しい。
「地獄のような日々を過ごす」
である。
人間やはり駄目な時というのはある。
まして私は四六時中身体のどこかを痛めていて、大抵は天候不順によってこれが起こる。
先週は日本全国で大量の雨が降った。我らが新宿大久保も例外ではなく、雨の日は本当に処し方が見出だせない。頭痛は起こる、夜中につけた冷房がそのままだと風邪を引く、雷は花火のように音を鳴らす……こうした豪雨と夏の日射しが交互に来る情景を見ると私は、水木しげるが描く戦記漫画の南方戦線を脳裏に浮かべる。
バケツをひっくり返したような雨。
照りつける日射し。
食材の腐敗。
人の身体さえ腐っていく……。
そんな日の人間も、この平和な日本で家の中に籠もっていれば平常でいられるのかと言うと……案外、そうでもない。
不思議なもので、調子が良い時には意外と雨にも耐えられたりするのだが、一度これで調子を崩すと今度、晴れてきても駄目だし、せっかく晴れて、雨のお陰で秋のように涼し気な空気になっていても外に出ること一つ出来ないようになる。
調子を崩すと人は今度取り返そうとする。
人間がギャンブルで負ける時とは、負けた瞬間にサパっと身を引かないことに問題があるわけで、負けたとは運気とか、流れみたいなものが良くないのだから、そこに即座に財布を放り込んでも菊池寛宜しくスッテンテンになるに決まっている。
体調にも似たようなところがある。
調子が悪いと言うのでそれを取り戻そうとすると尚更調子が悪くなっていく。大抵この状態になった時点で身体が悪いので、この身体の悪い状態で動こうとすると至極当然動けないわけだから、今度は心が病んでくる。
「ああ、なんと勿体ない。人生は有限であるのに、何故このように何も出来ない日々を”過ごさ”なければならないのだろうか」
実際には体調が悪い以上、何をやったって体調が悪いなりのことしか出来ないし、そのパフォーマンスの中でどのように人間やりくりしていこうかという話なのだが、そのように割り切ることができるようであれば最初から人は心を病むことはないのである。病むというのはやむにやまれぬ事情というものがある。
プロ野球選手にも「投げてみるまでどんな調子か分からない」選手がいたりする。そういう人物が登板した時に、野球ファンは
「これはガチャだ」
と言い始めるわけだが、どうもこういう選手は自分の調子にバラつきがあるということをある程度理解していて、調子が悪い日にはどう組み立てていくかを捕手と相談し合ったりしているそうである。
私はこのように山師としての人生をやっているわけだが、調子が悪い日には開き直って自堕落に過ごすことにしている。
人間の人生の時間というのはそれぞれ個人でそもそも決定されているもので、生涯の中で十全に活動可能な時期と、いまいち活動ができない時期があると私は考えている。
例えば酒を飲める量は人によって様々だと言うが、酒を沢山飲むことができる人も、沢山飲み続ければ最後には身体の問題で酒を飲むことができなくなる。そう考えると、生まれた時点で人が一生涯に飲める酒の量は予め規定されているような気がしてくるし、それは活動時間や執筆量も実際は同じなんじゃないだろうか?
レイモン・ラディゲは早くに死んだが名作長編を二つ残している。
ラディゲにおいてはこの「長編二作」という数こそが、彼が書きえる人生の執筆の総量だったのではないだろうか?
そのため、無理にあがいて取り戻そうとしても、そもそもの総量が決まっている以上、取り返そうとしても取り返すことはできないし、いつの間にか元に戻っているやもしれない。
これでいて私は自分に厳しい人間なので、駄目な時には自分を徹底的に甘やかすことで何とか精神を病むことだけは阻止し、元の生活に戻ることができるように少しずつ調整をしていく……。
今年は短編賞が多いので、短編もちょこちょこ書いていきます。
長編も年内に一つ、年度内にもう一つで、来年四月までに長編を二つ書ければ良いなアと思う反面、どうなるかも分からない……人の執筆量にはどうやら、規定された文字数があるようだから。