ハツばかり食うなと話をした次の月にはサラダチキンの話をしている。
どれだけ鶏がお前は好きなんだ? という自問自答を発生させないことには、この連続した話を記述することができない。
同じ部位ばかり食べることのグロテスクさは、例えば臓器移植をカニバリズムの一種だと言った吉本隆明辺りにも通ずるもののような気がしている。栄養学、生理学的な観点から特定のものを消費すること、それ自体の資本主義的営為、この要素について思わず私は考え込んでしまう。
ある商品を嗜好すること、それ単体を消費することとは、その商品の裏側にある、その商品を作り出す経路それそのものを肯定することである。これを一部の人々は理解しているのかしていないのか……例えば、ある飲食チェーンの経営がブラックだとしれると、企業イメージがダウンすると考えられ客足が遠のくというのは、そうしたビジネスを肯定すること自体がそのビジネスの成立過程にある行為を肯定し、ひいては自分自身の展開する・されているビジネスの首を絞めることになるという自覚があるからであろう。
さて、ようやく話は本題に行き着く。つまり、サラダチキンの話である。
サラダチキンと言えば売れる。世間の人々の健康志向は鶏肉の胸肉を、そしてささみ肉を求めるに至り、実際のところはささみでなくとも皮の部分がなければそれでいいので、皮は居酒屋か焼き鳥のメニューとして。胸やささみは健康志向の人々のものとして流通することになる。
しかし、だ。
スティック状に形成されたサラダチキンを、我々はどのように形容すればいいのだろうか?
もはやそれは鶏ではない。
もし仮に、鶏肉を消費する文化のない人間がそれを見れば、これが鶏などという連想はできない。というより、鶏を知っている我々でさえも包装がなければこれを鶏に類する何か”であった”ことなど、想像も出来まい。何らかの白いぬらりとした棒状のものでしかない。
フーコーが言っていた『これはパイプではない』とは違うのかもしれないが、少なくとも『これはニワトリではない』のである。というか、サラダチキンでさえないかもしれない。だって棒状なんだぞ? 冷静になって考えろよ。それは本当にサラダチキンなのか???
食べてみる。
に わ と り の 味 が す る !
これは一体どういうことなのだろうか???
明らかに『これはニワトリではない』し、何なら『これはサラダチキンではない』ような気さえするのに、食べてみるとあのパサついた、ほんのり塩気のついた例の味である。何らかの白いぬらりとした棒状なるものはここにサラダチキンという形式をはじめて獲得することになる。
どう見てもそれはニワトリではないのだ。サラダチキンでさえない。
だと言うのに、味はサラダチキンのそれである。理解し難い。
形而上学的なニワトリがそこに現出している。
……いや、ないわ。
ないだろ、ニワトリ。
そこにあるやろがい。
どうすんだよ。ニワトリの輪郭だけが見えてくる何らかの白いぬらりとした棒状のものって一体何なんだ???
私は『少女終末旅行』を思い出す。チョコレートを食べたことがない彼女らは、チョコ味の保存食を”チョコ味”として記憶しており、本当のチョコレートを知らないという舞台設定が登場する。
「ねえ、ちーちゃん。サラダチキンってなに?」
「知らないぞ、そんなの」
「でもサラダチキンって言うぐらいだし、食べ物なんだよね。チキンってどんな生き物だと思う?」
「人間だったりして」
そういうわけで、今回の近況ノートは『優雅で感傷的なサラダチキン』であり、形而上学的なニワトリを追い求める話でした。
新作は……いや、書いてはいるんですが新人賞向けのモノばかりで、この四ヶ月で長編を二つ仕上げてはいるのですが、賞の当落が出てこないと表に出しようがない。じきに何か書くんだと思うんだけど、いつになるのやら……