年末年始は気味が悪い。
誰も彼もが実家に帰る。
実家は大抵彼らの住む場所とは違う遠いどこかにあり、つまり遠くに行く。
そのわりにその場で行くと何か面白みがなくて退屈で、思考回路が走り出して色々なことを考える。
困るのが私のように実家が国境を超えた先にあったりする場合で、一応日本国内に収まる実家もあるにはあるのだが没交流らしい。
考えてみればウチはいつもいつもお金がなくて泣いているから、お年玉を渡そうとなったら涙を流して涙枯らして財布をレッドデータブック入りさせる他にないのだから、やはり帰る場所などない方がいいのかもしれない。
皆、実家に行くと何か脳の回路が暇するのに帰省をするものだから、ネットで喋れば結構な頻度でレスポンスが返ってくる。もう少し実家の人間と話をしたらどうなんだ、と思いながら会話する。実家に居ていつも通りに本を読み、いつも通りに書いているのは私だけだ。私にとってのみ年末年始はただの月末月初だった。気味が悪い。何故どいつもこいつもオンラインで、どいつもこいつもTwitterで呟いているんだ?
関東出身の友人が地方から帰省のために東京に来たので焼き鳥屋に行く。
その時の私はお腹がすいていたのでパクパクと一人(後々、ワリカンにするつもりなのに)食事をとっていた。
ハツが美味しいので食べる。
焼き鳥屋では部位がそれぞれ出てくる。鶏を丸ごと出すような焼き鳥屋はまず滅多にあるまい、雀じゃあるまいし。
ハツが美味しいのでもう一度注文する。既に友人は店に来ていて、哲学と文学の話を少ししながら、今年はああしたい、こうしたい等と話をする。
ハツが美味しいので、もう一度頼もうとする。
するだけで、頼まない。
何か不自然な気がした。
焼き鳥屋では部位が出てくる。ハツもそうだし、レバーを頼めばレバーが、皮を頼めば皮だけが、もも、胸、手羽先……。
私がもしこのままハツばかりを食べていったら、と思う。
鶏は解体されて部位毎にバラバラになって店に運ばれてくる。ハツなんて鶏の中にそう何個もあるわけではない。今調べた、一つしかない。
それなのに私はもう既にハツを二本食べている。一串辺り三つはついていて、一回辺り二本来て、それを二回頼んでいる。
つまり3×2×2で12個のハツが既に食べられている。
鶏の心臓はそう大きいものではないだろう。となれば少なくとも六匹、多ければ十二匹ぶんのハツが食べられている計算になる。
ハツばかりを食べていると、鶏が解体されて部位毎に物別れになって消費されていく構造を加速させているような、そんな気がしてしまった。だからと言って鶏の部位を一つ一つ食べるでもなく、ただハツばかりを食べることの不自然さに何か思うところがあった。栄養価が高いからと内臓ばかり食べていく肉食獣のようだ。
カクヨム側の更新、どうなるんでしょう。
月一本は短編を書きたいな、などと言いましたが実際のところ長編の方にまた手を出し始めてしまったので、どこまで書けるのか。
出した長編が上手く行かなかったらカクヨムで何とかかんとかどうにかこうにかしたいなと考えていますが、それも半年以上先の話……。
助走は続くよどこまでも。
早く終わってくれ、いつまで私は暖機運転していればいいんだ?
あけましておめでとうございます。
今年もあなたのハツに届くものを書ければいいなと適当書いたところで終わりにします。