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蟹の神話

込み入った話になる。
込み入った話になる。

二度言ったのでもう大丈夫ですよね。そうだという前提の下で話を進めようと思う。そう、込み入った話。三度目だなこれ……

人は神話を作る生き物である。
神話には類型が存在し、実際に世界で生じた出来事に加えて共同体の要請やそもそもの物語としての面白さ、伝えやすさ等々等々とにかくまぁ色々な要求とか要請を盛り込んだものが神話である。恐らく神話の原点は出来事の口伝であったのだろうが、それが長く長く語り続けられることで神話としての風格を帯びるようになる。
大学で文系で入学して留年していく毎に神話的生物としての雰囲気がその個人に付随していくのと同様にそれは寧ろ錯覚ではないかという想定も可能ではあるし、史的イェスについて語って(「イエスの生涯」)村八分にされたダーフィト・シュトラウスみたいな人も居る。

ところで、蟹は神話である。
数多の神話がそうであるように、蟹もまた蟹を模した行事やイベントがあり、またそれそのものを模した物が存在する。つまりカニカマである。
少なくとも、普段から蟹ばっか食ってるというのは漁村の人々以外には想定し難いことを考えれば、蟹とはつまりはれの日のものとなり、よりそこに神話としての性質を帯びるに足る文脈が生じるわけである。

そう、蟹は神話である。
何故なら、実態としての蟹を知る人間は僅かだからである。
読者諸兄皆々様につきましては具体的に蟹の御姿について想像をしてみて欲しいのだが、人によってそれは毛が生えていたり脚が長かったり毒を持っていたり、青かったり赤かったり茶色だったりするのである。これはまさしく神話の類型そのものであり、本質としての蟹(カニというのはカミ、つまり神と同じ文字数である。何と言うことだ。漢字で表せばどちらも一文字で、平仮名・片仮名なら二文字ではないか!)の御姿を誰も真に把握してはいないのである。
蟹を見たことがあるという人であっても、蟹を実際に食べたことのある人は少ないであろう。これはつまり、新約聖書においてイエス・キリストが
「このパンは我が肉体であり、ワインは我が血である」
と言って、自身を模したものとして食を取らせた経緯に似ている。イエス・キリストそのものを食べられてしまっては大いに困るからである。何と人肉食を表す単語、カニバリズムには”カニ”の二文字が含まれているのである!

さて、蟹は神話である。
我々は恐れ多いことにその蟹に遭遇した。まるでクトゥルフの呼び声みたいな導入である。蟹を見た貴方はSANチェック(0/1D6)です。ダイスを振って下さい。あれ、端からゼロだった場合はどうすればいいのだろう。
いあ! いあ! はすたあ! はすたあ
くふあやくぶるぐとむ
ぶぐとらぐるん ぶるぐとむ
あい! あい! はすたあ!
そこに居合わせた友人もまた蟹に初めて遭遇するという。私は恐らく記憶上初めてマトモに蟹を食べたといえる。別の友人は蟹をバラして売っていたという。邪神ハンターか?
取り敢えずそれを食べた。身体に異変はない。もし筆者の更新がなくなったらそれは単純にやる気が出ないだけである。
不思議なことに、蟹を食べた時(何と冒涜的な!)には
「なんだ。蟹がどうと世間様は言うが、案外こんなものか」
というような調子こいたことを考えていた筆者だが、次の日には何かアレがやたらと美味しいものだったような気がしてきて、今も少しそのようなことを考えている。
もしかしたら私はインスマスの”深きものども”の一員だったのかもしれない。なるほど、たまに身体から生臭い臭いがすると思った。洗えば取れるし毎日シャワーはしているが。


というわけで、ソルジャーズ・レビューは今月中にNo.5の見切りをつけ、No.6を二月中。No.7を三月はじめ頃には終結させたい。
そのあとは、半年ほどかけて大作を書きたいと思っています。
なんであれ、適度に頑張ろうと思うので生暖かい目で見ていただければ幸いです。

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