連合王国の女王、エリザベス二世陛下がお隠れになった。
沈まぬ太陽、コモンウェルスの長である。
世界中が沈黙の気持につつまれる。
全名は、エリザベス・アレクサンドラ・メアリー・オブ・ウィンザー。
日本の皇室との違いは、家名があること。
たまに、「天皇の名字は」と疑問を持つ人がいるが、皇室に家名はない。
奴隷制度のなかった日本は奴隷というものがどういう扱いのものかをわからない。
「そんなことは無い、日本には厳しい身分格差があった」というものがいるが、そんなものは元々なく、ただ、親の仕事を子供が継ぐのが習わしの状態があり、そして今は、行政へのたかりの理由になっている。
大声で言うことではないが、僕は、社会的に迫害されるに足る要素を持っている。
事実、僕に与えられた自由は狭い。
それでも、「身分格差があった」と唱う人達は、僕や僕と同じ境遇の人々を保護しない。
むしろ、差別的に扱う。
福岡空港の土地が、誰から借りたもので、毎年幾ら払われているかを知れば、身分格差の方がありがたいのではないかとすら思える。
さて、あなたが古代中東の街に紛れ込んでしまったとする。
どういういきさつかは忘れたが、着ているスーツはぼろぼろで、金はある。
このなりじゃそれこそ奴隷と間違われかねないと、立派な看板の大構えなテーラーの扉を開ける。
ホールに立っていた、質素なスーツに、どこか疲れた顔の男性の店員が「いらっしゃいませ、本日はどのようなご用命ですか」と尋ねてくる。
店の奥には大理石作りの幅広の机があり、そこには、装飾もふんだんで生地の張りもよく、見るからに店長然とした男性が、書類作業をしている。
あなたが、財布を拡げて金貨を十枚ほどみせて、「人に恥ずかしくないスーツが欲しいんだ」というと、その様子をめざとく見ていた店長が、穏やかにゆっくりと近づいてきて店員に「君、こちらのお客様のお相手は私が直接お聞きするから」と店員を下げさせる。
店長のトークは滑るようになめらかで、スーツの細かい仕様によって相手に与える印象の違いなどを解説しながら、フルオーダーのスーツの仕様を決めていってくれる。
あなたは心の中で「先ほどの店員さんに相談するより、こちらの店長さんが相手にしてくれて良かった」とすら思う。
すると店の奥から、みすぼらしい姿の小太りの中年が顔を出してくる。
髪は伸びかかり、髭も無精、下にはいている無地の緩い短パンは食べこぼしで汚れていて、上はただ丈が長いだけの、襟口が少しほころんだロングTシャツを着ている。
小太りの男が「ちょっと」と軽く声をかけると、店長は今までにもましてまじめな顔つきとなり「少々お待ち下さい」とあなたに言い残して、小太りの男に歩み寄る。
聞くとはなしに、何となく耳をそばだてていると、小太りの男と店長の会話が聞こえる。
「ねえ、この絵本のここ、なんて書いてあるの」
「それはね、かくかくしかじかで、もしよろしければ、今晩はこの絵本を読もうかい」
「それはいい、まだまだ字を読むのはおっくうでね」
どうやら、小太りの男は身なりも貧しく文字も読めないらしい。
店長が小太りの男の相手をしている間、先の疲れ顔の店員が、「お客様をお待たせしてしまってすみません。
店長は間もなく戻りますので。
それにしてもお客様は肩幅がしっかりしていらっしゃるのでナチュラルなショルダーにしてもお似合いになるでしょう」とおべっかを使ってくる。
さてと、だ。
僕はいま、主人と自由民と奴隷を書いた。
誰がどの身分に当てはまるかおわかりだろうか。
答えは、くたびれた店員が自由民で、小汚い小太りの中年が主人で、店長が奴隷だ。
奴隷労働と聞くと日本人は、粗末なボロを与えられて、官吏にむち打たれながら重労働する姿しか思い浮かべない。
奴隷制度はそんな甘いものではない。
あなたは、パソコンと比べて、何も見ずに正確に書ける漢字の数で勝てるだろうか。
あなたは、パソコンと比べて、単純な計算を百万回繰り返す速度で勝てるだろうか。
無論、勝てまい。
だが、相手はパソコン、ものであり、あなたは人間だ。
パソコンが動くうちは使うが、動きが悪くなったり、OSやメモリなどの基礎スペックが劣るようになったら簡単に捨てて買い換える。
そこに「パソコンの意志」などというものは理論上あり得ないし、そんなこと考えたこともない。
古代世界に於いて、読み書きソロバンができるのは、一種の特殊技能で、そのような技能を辛い訓練の果てに身につけるのは奴隷のやること。
主人は、冒険世界の本が読みたければ奴隷に読み上げさせればいいし、資産の管理をしたければ奴隷に計算させればよい。
奴隷には「あっちの店の方が俸給が多いので」と店を移る自由はない。
ただ、幾ら奴隷とはいえ、収入源の一つであるテーラーの店長を任せるのだから、身だしなみはきちんとさせたい。
髪も切り揃えるし、髭も整える。
そしてマネキンよろしく華美な装いをさせる。
もちろん、毎日風呂にも入れる。
しかし、老いて体が動かなくなってきたら処分を考える。
奴隷といえども「主人は奴隷を虐待してはならない」という法があるから、いきなり首を絞めて殺すこともできない。
貧乏人に安値で譲るなり、病気になっても治療せずに事切れるのを待つ。
例のくたびれた店員は、店長である奴隷の手が回らない時に接客するように雇った自由民で、契約によって労働というサービスを提供してくれる。
だから、雇用主である小太りの中年から、雇用契約をうちきって首にすることもできるし、逆にくたびれた店員の方から「他の店に移ります」といわれる可能性もある。
自由とはそういうものだ。
昔のCMであった「職業選択の自由、アハハン。
職業選択の自由、アハハン。
ジーユーウ。
ジーユーウ」
転職してもろくな仕事がないかどうかはともかく、転職して、世の中での身分を向上させる可能性にかけることができることこそ、自由の正体だ。
ヒューマンライツとはよくいったもので、基本的人権は尊重される。
日本人で、転職の自由がない人がいるはずがない。
だが、厳然として当代の日本にも、自分の身分を自分の選択で決めることができない、ある意味「虐げられた人々」がいるのである。
こう聞くとあなたは「そんな不公平は是正すべきだ」と考えるのではないだろうか。
私は、しようこともなし、と複雑な尊敬をその人達に向ける。
なぜなら現代日本においてヒューマンライツが認められないのは、皇統に属する皇男子孫のことだからである。
女子は主に婚姻を機として市民になる権利を有する。
皇男子系の男子孫は生まれながらにして身分が決まっており、それを覆す自由はない。
だから私は、「天皇皇后両陛下」という言葉が嫌いだ。
陛下の尊称をもって称せらるるは今上天皇ただ御一人のみのはずである。
上皇様に関しても、殿下と称するべきで、陛下の言葉を使うのは間違いだと思っている。
なぜ、天皇にだけある種の魔法にかかったような人権の毀損と、世界中から惜しみない敬意が向けられ、我々国民は天皇陛下の親閲にある種のときめきにも似た興奮を隠し得ないのか。
それは皇室が、男系男子によって連綿と一千年以上にわたって続いてきた家系という、人類史上まれに見る誇り高き血統を継いでいるからに他ならない。
大正天皇は明治天皇后の直接の男子ではなかった。
昭和天皇も大正天皇后の直接の男子ではなかった。
昭和天皇は、母と慕ってきた大正天皇后が自分の生母ではないと知り、強い精神的衝撃を受けたという。
そして歴代の伝統であったお付きの女官へのお手つきを辞め、ただ皇后ただ一人を愛した。
それ自体は耳に聞けば清廉潔癖に聞こえるかも知れない。
しかし僕は、昭和大帝の一番大きな瑕疵だと思う。
天皇は、男子を複数残して初めて国家の家長たる重責を果たすものと考えている。
その点において、今上陛下は意気地がなく、秋篠宮殿下夫妻は、相応の年齢を超えても子作りに取り組まれ、そして悠仁親王殿下を得た。
皇室典範の特例として今回の譲位は組まれたが、西暦に比べて使いづらい年号のあり方を考えたら、立太子式をやり直し、秋篠宮親王殿下が皇太子として新たに立ち、その上で譲位を受けるべきだったと思う。
そして悠仁親王殿下が成人した暁には、早期の婚姻と、公然の事実としての第三婦人、第四婦人をもたれることを願ってやまない。
マスコミがおもしろおかしく騒ぐ女性天皇など、皇室典範の何にも依拠しない戯れ言であり、ましてや女系天皇、混系天皇などあり得ない。
もし、女系天皇、混系天皇が即位すれば、たちまちのうちに旧宮家の血統が担ぎ出され南北朝の時代が到来する。
そして最終的には、旧宮家の男子が元皇室の血筋を招き入れて統合される。
これはもう、質量不変の法則よりも固い方程式として日本人に組み込まれている。
なぜか。
それは、祭祀王として天皇陛下御一人があらせられることが、日本人が話し合いを尊ぶことを可能とし、戦国から江戸、維新、富国強兵、日清日露大東亜戦争、そして戦後の高度成長とバブルの崩壊、関東大震災に東京大空襲、広島長崎の悲劇、阪神淡路大震災、東日本大震災などのあらゆる天変地異があっても、日本人が日本人でいられたその奥底には、男系男子によって連綿と繋がれたが故に尊く、代え難く、寄りがたく、愛おしい、そんな天皇陛下が、北天の北極星のように日本人の心を常に一所に向かわせてきたからである。
正直、日本人にとっては、西洋人の考えたヒューマンライツなどちゃんちゃらおかしい、
国際法の遵守とか、条約の維持とか、落とし物を届ける優しさとか、気をつけ前倣えとか、ぶっちゃけなんだっていい。
でも、話し合いで皆で決めたことは守ろうとする。
それどころか、人の目の届かないところでも「お天道様が見ている」と身を正そうとする。
天皇なんて要らない。
そう唱える人もいるが、それは余りに日本の国家の成り立ちを知らない。
無教養故の無理解だといえる。
税金でいい暮らしをさせる必要なんてない。
そう唱える人もいる。
皇室には相応の財産があったのだが、先の大戦に敗戦した時、国民生活補助の一助にとその多くを手放している。
それを維持していれば、今よりもっと栄華にすごせたはずなのに、それをしない。
そもそも税金が使われているのは公務関係で、その祭祀も含めて趣味道楽で行っておられるわけではない。
皇室の暮らしの重く苦しく辛く息詰まることは、秋篠宮家の長女が文無しを選んででも人権の世界に飛び込んできたことから、容易に察せられよう。
善とはなんたるや、を考えて考えるほどに善悪の見境を見失っても、泉の奥底にひっそりと沈む要石のように、それはある。
天皇はある。
天皇があるからこそ、我々日本人は「てんのーなんてクソ喰らえ」と自由な発言ができる。
昭和大帝が乱した皇室の家族制度は、悠仁親王殿下の手によって伝統を取り戻していただかなければならない。
天皇陛下唯御一人を除いて等しく人は皆臣下。
だからこそ日本人は柔軟に国際の世相に合わせて己を失わずにきた。
仏教の伝来に始まり、道教、儒教、回教、耶蘇教のいずれもを受け入れて、まるで「人としての当たり前」のように八百万の神々の一柱に組み込んできた。
日本人は如何なる外患に襲われようとも「日本人」であることを見失わずにきた。
なにかの絶対的な正義より、皆での話し合いを優先してきて、それでいて真っ当な道を歩んでこれた。
なぜか。
数多の星座の華やかさはなくとも、北天にひっそりと光り「なんごとありともゆるがなき存在」である北極星よろしく、天皇がそこにあるからだ。
コモンウェルスの民や、如何。
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